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街のざわめきから少し離れて、ただなんとなく足を動かしていた。目的なんてなかった。ただ、家に帰るにはまだ少し早い気がして、気づけば知らない道に入り込んでいた。
見慣れない路地を抜けたとき、ふと横に視線をやる。
そこには、さっきまでとはまるで違う景色が広がっていた。
高くそびえるビルがいくつも並び、ガラスに反射した光がやけに眩しい。
こんな場所、今まで来たことがあっただろうか。いや、そもそもこの街にこんな一角があったなんて、聞いたこともない。
違和感は、それだけじゃなかった。
ビル街の中心。
まるでそこだけ時間が止まったみたいに、不釣り合いな存在が静かに佇んでいる。
石造りの壁、尖った塔、重たく閉ざされた門。
それはどう見ても、“城”だった。
現実の中に紛れ込んだ異物のように、堂々と、けれどどこか人を拒むように。
足を止める。
引き返すべきだ、という感覚が頭のどこかで小さく鳴る。
なのに。
なぜか目が離せなかった。
吸い寄せられるように、一歩、また一歩と近づいていく。
靴音がやけに大きく響いて、自分の存在だけがこの場所に浮いている気がした。
門の前に立つ。
触れていいのかもわからない重厚な扉に、そっと手を伸ばした、その瞬間。
ゆっくりと――
まるでこちらを待っていたかのように、扉がひとりでに開いた。
扉の向こうに足を踏み入れた瞬間、外の喧騒が嘘みたいに消えた。
広がっていたのは、静寂だった。
高い天井、足音が吸い込まれていくような長い廊下。
薄暗い空間の奥に、ひとりの人影が立っている。
ゆっくりと、こちらを見た。
整った顔立ちに、どこか感情の読めない瞳。
まるでずっと前からそこにいたかのように、自然に。
そして――
「ようこそお越しになりました」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉にはどこか“確信”のようなものが滲んでいる。
まるで、自分が来ることを知っていたみたいに。
思わず足が止まる。
「……なんで」
喉の奥で、言葉が引っかかる。
ここがどこなのかも、この男が誰なのかもわからない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「なんで、俺がここにいるの知ってるんだよ」
男は一瞬だけ目を細めて、わずかに微笑んだ。
「知っている、というより――」
ゆっくりと、こちらへ歩み寄る。
足音はほとんどしないのに、距離だけが確実に縮まっていく。
「あなたが来るのは、当然のことでしたから」
意味がわからない。
けれど、その言葉は妙に現実味を持って胸に落ちた。
逃げた方がいい。
そう思うのに、体は動かない。
男はすぐ目の前で立ち止まり、わずかに身を屈める。
視線が、合う。
「佐野勇斗さん」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が強く跳ねた。
「ここは、“あなたが忘れたもの”を取り戻す場所です」
「……忘れた、もの?」
自分の声が、やけに遠くに聞こえた。
そんなもの、あっただろうか。
思い出そうとするほど、頭の奥に薄い靄がかかる。
掴めそうで、掴めない。
「はい」
目の前の男は、迷いなく頷く。
「あなたは大事なものを――ここに置いていきました」
静かな口調なのに、その言葉だけがやけに重く落ちた。
「は? 置いてきたって……そんなわけ――」
言いかけて、止まる。
“そんなわけない”と否定しようとしたはずなのに、
なぜかその言葉が、喉の奥で消えた。
完全に否定できなかった。
男はそれを見透かしたように、ふっと息を吐く。
「無理もありません。忘れているのですから」
一歩、距離が近づく。
さっきよりもはっきりと、その瞳が見えた。
感情がないわけじゃない。
むしろ――何かをずっと押し殺しているような、そんな目。
「ですが」
低く、静かに。
「私は、忘れていません」
その言葉に、心臓が一瞬止まった気がした。
「あなたがここで何を選んで、何を手放したのかも」
すぐ目の前。
逃げ場なんてない距離で、視線が絡む。
「……誰だよ、お前」
やっと絞り出した声は、思ったより弱かった。
男はほんの少しだけ目を伏せて、
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「吉田仁人です」
名前を聞いたはずなのに、
なぜか胸の奥がざわついた。
知らないはずなのに。
初めて聞くはずなのに。
“知っている気がした”。
「……初めまして、ではありませんよ」
その一言で、空気が変わる。
「あなたは一度、ここに来ている」
はっきりと、断言される。
「そして、」
ほんのわずかに、声が揺れた。
それは今までで初めて、感情が滲んだ瞬間だった。
「私を、ここに置いていった」
その言葉の意味を理解するより先に、
胸の奥が、痛いくらいに締め付けられた。
理由なんてわからない。
記憶もない。
それでも。
どうしようもなく、“後悔”に似た感情だけが、込み上げてくる。
「……そんなの、知らねぇよ」
思わず逸らした視線を、男は追わなかった。
ただ静かに、言う。
「ええ。だから」
ゆっくりと手を差し出す。
「もう一度、選んでください」
その手は、強制するでもなく、
けれど拒ませる隙もないほどまっすぐで。
「今度は、忘れないように」