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照明が落ち、ステージ中央にひとりの男が現れた。
仮面をつけたまま、静かに立っている。
羽鳥は、思わず身を起こした。
そこにいたのは
先ほどの仮面の男だった。
「ただの呼び込みだと思ってた……」
空気が凍りつくように静まり返る中、
仮面の男――斬島凶が、ゆっくりと観客席を見渡す。
足音すら殺すような動きで、静かに歩き出す。
その仕草ひとつで、ざわめいていた場内が一気に沈黙へと変わった。
仮面の奥から、低くくぐもった声が響く。
「……こんばんは。斬島凶と、申します」
張り上げるでも、囁くでもない。
ただ、深夜の静けさに溶け込むような声。
それでいて、どこか得体の知れない“重さ”があった。
「私は、元・包丁師です。
ナイフの扱いは、一から百……いえ、千まで、叩き込まれております」
抑揚のない語り口が、むしろ場内の緊張を引き締めていく。
羽鳥は、ぞくりと背筋を震わせた。
仮面の奥から向けられる視線が、空気ごと切り裂いて届くような錯覚に陥る。
その声に、確かな“狂気”の輪郭が宿っていた。
「念のため、前方のお客様は、少し下がっていただいた方がよろしいかと。
……さもないと、五体満足でお帰りいただける保証は、いたしかねますので」
ざわっ、と客席がわずかにざわめく。
羽鳥は喉を引きつらせ、震えるように呟いた。
「いや怖いわ……!!!」
緊張が、場内を一気に締めつける。
冗談めいたセリフでさえ、どこか現実味を帯びていた。
冷たい空気が、肌にまとわりつく。
斬島凶は、ざわめきにも微動だにせず、
無言で腰をかがめた。
手元の木箱を開け、黙って数本のナイフを取り出す。
舞台の照明に照らされ、鋼の刃が青白く、鈍く光る。
「これより、お見せするのは——刃物の乱舞」
その一言も、抑揚のない、まるで独り言のような調子だった。
けれど、その静けさが、空気を凍らせるには十分だった。
一本目のナイフが、ふわりと頭上に放たれる。
続いて、二本目、三本目……。
軽やかな手つき。無駄のない軌道。
それは“投げる”というより、“操る”という領域だった。
四本目、五本目、六本目――
ナイフの数が増えるにつれ、鋭い切っ先が空気を裂く音が幾重にも走った。
羽鳥は、ごくりと唾を飲み込む。
鋼の光が、ステージの上で閃光のように踊っていた。
観客たちは息を呑み、誰ひとりとして身じろぎすらしない。
斬島凶の動きには、最初から最後まで、一点の揺らぎもなかった。
まさに――完璧な技術だった。
「あの客引き……只者じゃない」
思わず漏らした羽鳥の言葉に、隣の白スーツの男がくすりと笑う。
「……どうだい? 少しは驚いてもらえたかな」
羽鳥は戸惑いながらも、率直に答える。
「確かに、すごいですけど……
まだ、“感動”ってほどでは……ないかもしれません」
その瞬間、ふっと空気が張り詰めたように感じた。
羽鳥は慌てて口をつぐむ。
だが、東堂は微笑んだままだった。
「フフ……正直で結構」
「いやいや!! 今のは、そういうつもりじゃ……!」
そう言いかけた羽鳥に、東堂は舞台へと視線を向けながら、さりげなく告げた。
「ですが――本当にすごいのは、ここからですよ」
その声と同時に、斬島凶は流れるようにナイフを木箱へ戻し、
今度は無言のまま、舞台袖に置かれていた道具をひとつずつ運び出す。
それらを、舞台の上に丁寧に積み上げていく。
球体の上に板を乗せ、さらに球体、そしてまた板。
漠然とした想像は、瞬く間に現実となっていく。
子供の遊具のようにも見えるその道具は、しかし、
明らかに常軌を逸した不安定さで積み上がっていった。
玉の上に板、さらに玉、板――
二段構成の“動く地雷”のようなタワーが、いまここに完成する。
「えっ……まさか、あれに乗るんですか!?」
羽鳥の顔が、みるみるうちに引きつっていく。
東堂は、淡い笑みを浮かべたまま口をつぐんでいた。
――それが、すべての答えだった。
斬島凶は、静かに観客席を見渡す。
仮面の奥の視線が、じわりとこちらを刺してくる。
「これからお見せするのは、ただのナイフ芸ではございません。
バランス芸を行いながら、ナイフジャグリングをいたします。それでは」
何の誇張もない。
自慢げでもなく、脅しでもない。
ただ、静かに“事実”として語られる言葉。
その抑制された物言いが、かえって観客の心拍を早めていた。
「……あまりに高等な技術ばかり披露してしまうと、
後から出てくる大道芸人の男には……少々、プレッシャーかもしれませんね」
くすり、と観客席に笑いが走る。
だが――
「おいっ!!」
舞台裏から飛んだツッコミに、場内が爆発するように笑いに包まれた。
羽鳥も思わず吹き出しながら、心の中で呟いた。
(……何なんだ、このサーカス)
命の保証もないような芸を涼しい顔でこなし、
急に客席からツッコミが飛んできたと思えば、それを織り込んだかのように笑いが起きる。
空気は張り詰めているのに、どこか心地よくもある。
理屈では説明できない。
けれど、目の前で起きているこの一切が――
恐ろしくて、滑稽で、どうしようもなく面白い。
(ほんとに、何なんだよ……このサーカス)
だが斬島凶は、ツッコミにも笑いにも一切反応を見せず、
まるで“この空気すら計算済み”とでも言わんばかりに、
バランス芸の塔の前に無言で立つ。
仮面越しのその佇まいには、
狂気と冷静が、奇妙に同居していた。
――そして、彼は、ゆっくりと塔に足をかけた。