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灰色の天井に、鈍い光が差し込んでいる。
ここは監獄。罪と向き合い、審かれる場所。けれどミコトにとっては、それ以上に「彼女」がいる場所だった。
「コトちゃーん、おはよっ!」
「……騒がしい」
無表情で、冷たく投げられた言葉。だけど慣れている。むしろ、それすら愛おしい。ミコトは柵越しに身を乗り出す。
「また睨んでるの? そんな目で見ないでよ、コトちゃん。僕、今日もちゃんといい子にしてたよ?」
「知らない。勝手にしてれば」
「ふふ、それでも見ててくれたんだ。ありがとう」
その笑顔が、あまりにも自然で。杠コトコは言葉を返す前に視線をそらした。
ミコトの視線は常に優しく、まるで抱きしめるみたいに甘い。それが、どうしようもなく――心に触れてくる。
けれど。
「……勘違いしないで。私は、あんたの味方じゃない」
「うん、それでもいいよ。コトちゃんが僕を見てくれてるなら」
──夜の独房は、静かだった。
看守が目を離した一瞬を縫って、ミコトはコトコの部屋に忍び込んでいた。毎度のことで、コトコもあきれて怒る気力もない。ただ、部屋の片隅で膝を抱えている姿が、少しだけ――どこか脆かった。
「……コトちゃん」
「また来たの? 呆れる」
「だって……眠れないんだ。今日、コトちゃんの顔見れたのに、まだ足りないんだもん」
囁く声がやけに近い。気づけばミコトはそっと床に膝をついて、コトコの隣に座っていた。距離は――近すぎる。
「ミコト、近い」
「うん、近いよ。……でも、離れたくない」
「……バカ」
その小さな声に、ミコトの心が跳ねる。顔を近づけると、コトコの睫毛が微かに震えた。
「僕、コトちゃんのこと、本当に好きなんだ」
「……知ってる」
「知ってても、言わせてほしい。僕は、コトちゃんの冷たいところも、強がるところも、全部好き。だから……」
ミコトは指先でそっと、コトコの手を取る。
「コトちゃんが僕を憎んでも、罰しても、好きなんだ。罪人でも、僕は君を愛してる」
「……ほんと、どうかしてる」
呆れたように言いながら、コトコはその手を振り払わなかった。
むしろ、ほんの少しだけ、その指を握り返していた。
翌日、審問が行われた。
「榧野ミコト、罪の認識はないのか?」
少しの沈黙。
「……罪だなんて、人殺しなんてしてないのに、知るわけないじゃん…」
その声は、彼のいつもの優しい口調と違って、どこか冷たかった。まるで、何かを守るために演じていた仮面が、ゆっくりと外れていくような感覚。
そのとき、審問室の後ろで、隠れて見ていたコトコが、ふいに眉をひそめた。
ミコトが、何かを隠している。それは分かっていた。けれど、それでも――
(……あんたは、本当に、何を考えてるの?)
夜、再び独房で顔を合わせたふたり。沈黙の中、先に口を開いたのはミコトだった。
「コトちゃん」
「……何」
「僕のこと、裁いてもいいよ」
「は?」
「僕の罪も、嘘も、全部。君が知ってるなら、罰していい。僕は――コトちゃんに裁かれたい」
「……そんなの、望んでどうするのよ」
ミコトはゆっくりと、手を伸ばして、コトコの頬に触れる。柔らかく、けれど確かな温度。
「それでも、君に触れていたいんだ」
一瞬、コトコの瞳が揺れる。
そして――彼女は、何も言わず、その手を拒まなかった。
ミコトの唇が触れそうな距離にあった。
罪の中で生まれた愛は、正しいとは言えない。
けれど、それでも確かにそこにある、ふたりだけの感情。
「ミコト」
「……うん?」
「次にあんたが嘘をついたら、そのときは――私が、本気で怒るから」
「ふふ、うん。約束する。……コトちゃんにだけは、嘘つかないよ」
そっと唇が重なった。
監獄の静寂の中で、罪人と正義の少女は、確かに心を交わしていた。
それは、愛か、執着か。それとも、救いか――
答えはまだ、誰にも分からない。
───
「……はあ」
コトコはため息をついた。
視線の先には、何食わぬ顔でこちらを見ているミコト。相変わらずの微笑み。あたたかくて、安心する顔。……だからこそ、腹が立つ。
「今日もかわいいね、コトちゃん」
「ミコト、もう少し黙って」
「えー、無理。コトちゃんがそこにいるのに、黙ってなんて……苦行すぎるよ」
呆れたような返しをするけど、コトコの手元の本は、一向にページが進まない。視線は紙に落としていても、頭の片隅にはずっと、ミコトの声と気配がまとわりついていた。
(あの夜以来……距離が、変わった)
ミコトの指が、自分の頬に触れた感触。唇が重なった瞬間の熱。忘れようとしても、脳裏に焼きついて離れない。
「……本気なの?」
ふいに、ぼそりと口に出していた。
ミコトは一瞬だけ驚いたような顔をした後、ふっと微笑んだ。
「本気だよ。僕がふざけるときって、分かるでしょ? こんなときは、絶対ふざけない」
「……」
そう。分かっている。
ミコトの目は、嘘をつくとき、少しだけ揺れる。
でも、今の彼の目はまっすぐだった。まっすぐすぎて――怖いくらいに。
かつて、自分は信じていた。
正義は白、悪は黒。
曖昧なものを許せなかった。だから、裁く。断じる。それが杠コトコの「力」であり、「存在意義」だった。
でも今は。
(アイツの罪は、なんなの?)
ミコトが何かを隠しているのは明らかだった。人格の切り替わり。記憶の欠落。多数の被害者の存在──
でも、それら全てを知ってもなお、彼を”赦したい”と思ってしまう自分がいる。
(おかしい。私は……間違ってる)
けれど、もしそれが間違いだとしても――ミコトのぬくもりを、優しさを、忘れたくなかった。
そんな自分が一番、許せなかった。
──その夜も、ミコトは静かに現れた。
音もなく、まるで空気のように。何も言わず、ただそばに座った。
コトコももう驚かない。ただ、少しだけ身を固くする。
「……来るなら、せめてノックくらいしなさい」
「コトちゃん、ノックしても怒るでしょ?」
「だからって、黙って来ていいって意味じゃない」
「うん。……でも、来たいから来た」
その言葉が、妙に素直すぎて。コトコは小さく、ため息を吐いた。
「……バカ」
「ありがとう」
「褒めてない」
「それでも嬉しい。コトちゃんが僕を受け入れてくれるだけで」
ゆっくりと、ミコトの手がコトコの髪に触れる。優しく撫でるように。まるで、何かを確かめるように。
「ねえ、コトちゃん。僕、たとえばこのまま死んじゃったとしても、君に覚えててほしい」
「……なに、急に」
「いや、なんとなく。……このまま一審で無罪になったとしても、有罪になったとしても……、意味は無いんじゃないかって思っちゃってさ」
「……」
「だから、覚えててほしいの。僕が、こんなにもコトちゃんを好きだったこと」
声が震えていた。笑顔の裏に、どうしようもない不安が滲んでいた。
コトコは、思わずその手を握り返した。
「……じゃあ、生きて。覚えさせるなら、その顔のままでいなさい」
「……うん」
小さく呟いたあと、ミコトはゆっくりと顔を寄せた。今度は、唇ではなく、コトコの額にそっとキスを落とす。
それはまるで、祈りのようで――赦しを乞うようだった。