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葉菜
22
もな
315
朝の光は障子を透かすと随分とおとなしくなり、白い紙の向こうから差し込む淡い明るさだけが、まだ眠りの残る部屋の畳や柱を柔らかく浮かび上がらせていた。
少女は、その淡い白の向こうから聞こえてくる庭師の鋏の音で目を覚まし、薄く開いた瞼のまま、布団の中でしばらく規則正しく続く音へ耳を傾けていた。
ちょきり、ちょきり、と枝を切る音が一定の間を置いて響き、その合間を埋めるように雀の声と水の流れる音が聞こえ、さらに遠くでは朝の圧を逃がす蒸気管が低く長い息を吐いている。
「……もう、そのような時間なのですねぇ」
少女は枕元の時計へ手を伸ばすこともなく、長い髪を胸元へ寄せながらゆっくり身体を起こし、まだ少し重たい瞼を指先で擦った。
庭師の源造が東庭へ入るのは六つ半を少し過ぎたころで、そのあと台所の大釜へ火が入り、七つになるころには朝餉の支度を知らせる足音が廊下を行き交い始める。
生まれてからほとんど変わることなく繰り返されてきた朝なので、時計を確かめなくとも、屋敷の音だけでおおよその時刻を知ることができた。
襖の向こうから足音が近づき、やがて部屋の前で止まると、朝の静けさを壊さない程度の声が聞こえてきた。
「小依様、お目覚めでございますか」
「はい。どうぞ」
返事をすると襖が静かに開き、朝の支度を任されている女中が二人、揃って頭を下げてから部屋へ入ってきた。
この屋敷で彼女をただ「小依」と呼ぶ者はほとんどおらず、使用人も教師も客人も皆、幼いころから変わらず彼女を「小依様」と呼んできた。
篠倉家の娘、小依。
それが、彼女が生まれたときから与えられている立場だった。
小依が鏡台の前へ座ると、一人の女中が寝間着を整え、もう一人が背後へ回って、腰を越えて伸びた髪へゆっくり櫛を通していく。
髪は室内では艶のある黒に見えるが、日の光を受けると墨へ藍を一滴落としたような色が浮かび、毛先へ近づくほど僅かに柔らかな波を描いていた。
幼いころから母はその髪を好み、櫛を通すたびに「あなたの髪は本当に綺麗ねぇ」と嬉しそうに話していたので、小依も自分の髪はきっと良いものなのだろうと思っている。
好きなのかと改めて尋ねられれば、少し考え込んでしまうけれど。
髪を梳かされながら、小依は鏡に映る自分よりも、その奥にある硝子戸の向こうへ視線を向けた。
東庭では夜の間に降りた露がまだ残っており、地面を覆う杉苔の細かな葉先には小さな水滴が無数に結ばれ、それぞれが朝の光を拾って硝子の粒のように瞬いている。
苔の間から頭を出した羊歯は湿った葉をゆっくり広げ、その脇では低く刈り込まれた皐月の葉から雫が一つ落ち、下の石へ触れた瞬間だけ小さく弾けた。
庭の中央には浅い流れが通っている。
山から引いた水を一度屋敷の貯水槽へ溜め、そこから庭へ分けたもので、幅は小依が両手を広げるよりも狭く、丸みを帯びた川石の間を縫いながら静かに池へ流れ込んでいる。
水は澄んでいて、底へ沈んだ白砂の一粒一粒まで見えるほどだったが、流れの脇には水草が柔らかく揺れ、石の陰には小さな巻貝が張り付いていた。
その流れへ枝を差し出すように紅葉が一本植えられており、春を過ぎたばかりの若葉はまだ薄く、朝日を透かした葉脈まで小依の部屋から見ることができる。
庭師の源造は、その紅葉の前に立っていた。
枝を少し眺めてから一本を選び、鋏を入れる。
ちょきり、と音がする。
葉をつけた細い枝が、湿った苔の上へ落ちた。
小依はそれを眺めていたが、何かを思うより先に、今度は塀の上へ一羽の雀が降りてきた。
雀は瓦の端を二、三歩跳ね、庭を覗き込むように首を傾けたあと、何の前触れもなく羽を広げて空へ飛び上がった。
高い塀など初めから存在していないように越えていき、その小さな影は朝の白い空へ溶けるように見えなくなった。
「小依様?」
背後から呼ばれ、小依はようやく鏡へ視線を戻した。
「はい?」
「お髪を少し強く引いてしまいましたでしょうか」
「いいえ、大丈夫ですよ。雀を見ていただけですから」
小依が微笑むと女中も安心したように笑い、髪をまとめるための紐を手に取った。
雀がどこへ向かったのか、小依には分からない。
けれど、それを考え続ける理由も見つからなかったので、小依は鏡の前で姿勢を正し、いつものように朝の支度を終えた。
朝餉のあとは書の稽古があり、その次に算術、昼前には剣術、昼餉を挟んだ午後には茶道と琴の稽古が続き、夕刻には母と共に客人へ挨拶をする予定が組まれていた。
曜日によって歴史や政治、蒸気機関の基礎、華道、歌、舞、合気などへ内容が入れ替わるものの、一日の大半が勉学と稽古で埋まっていることに変わりはない。
小依が屋敷の外にある学校へ通うことはなく、必要な教師はすべて篠倉家へ招かれていたので、幼いころから学ぶために門の外へ出る必要そのものがなかった。
篠倉家は、この土地ではそれなりに古い名を持つ家である。
現在の領主家がこの地へ勢力を広げるよりも前から続いているのだと、父は折に触れて誇らしそうに話していた。
もっとも、古くから続いていることと、今も大きな力を持っていることは別らしく、小依には細かな事情まで分からなくとも、父が帳簿を前に長く黙り込んだり、訪れる客の家紋によって普段より深く頭を下げたりすることくらいは知っている。
屋敷は広く、使用人もいて、先祖代々受け継いだ土地もあるため、町の人々から見れば篠倉家は十分すぎるほど恵まれた家なのだろう。
けれど父が語る昔の篠倉家と比べれば、今は随分と小さくなったらしい。
祝いの席などで上位の家々が集まる日には、父はいつもより念入りに羽織を整え、母は何度も小依の髪や襟元を確かめていた。
「篠倉の名に恥じぬように」
父は幼いころから何度もそう言い、母も「あなたなら、どのようなお家へ嫁いでも恥ずかしくありませんよ」と、娘の成長を心から喜ぶように話していた。
だから小依も、自分がきちんとした娘になれば父も母も安心するのだと思い、教えられたことはできるだけ真面目に覚えてきた。
書を習い、算術を学び、茶を点て、琴を弾き、歌と舞を覚え、剣を振るい、合気の稽古で何度畳へ転がされても、なるべく弱音を吐かないよう心掛けた。
先生たちが帰り際に「小依様は本当にご立派ですね」と褒めてくれることも嬉しかったが、その言葉を聞いた父と母が満足そうに笑ってくれることの方が、小依にはずっと嬉しかった。
だから、自分の毎日に何かが欠けているなどと考えたことは、一度もなかった。
昼前の剣術では、庭に面した道場の障子がすべて開け放たれており、湿った土と若葉の匂いを含んだ風が、畳の上をゆっくり通り抜けていた。
「小依様、少し肩へ力が入りすぎております」
指南役の声に、小依は息を吐きながら木刀を持ち直し、正面に立つ門弟の足元へ静かに視線を落とした。
「はい。申し訳ございません」
「謝ることではございませぬ。水と同じです、力で流れようとすれば淀みます」
その言葉に小依は小さく頷き、今度は肩から余計な力を抜いて構え直した。
相手役の青年が一歩踏み込んで木刀を振り下ろすと、小依は半歩だけ下がって受け流し、二合、三合と打ち合ったあと、相手の力を横へ逃がしながら切先を喉元の手前で止めた。
「そこまで」
互いに木刀を下ろして一礼すると、指南役は満足そうに頷いた。
「お見事でございました」
「ありがとうございます。先生に言われた通りに動いただけですけれど」
相手役の青年も頭を下げ、道具を片付けると、そのまま道場の外へ出ていった。
小依より少し年上の青年で、何年も稽古相手を務めてもらっているため名前も顔も知っているが、好きな食べ物も、兄弟がいるのかも、休みの日に何をしているのかも知らない。
木刀を棚へ戻しながら、小依はふと、同じくらいの年頃の人たちは、稽古や勉学のほかに普段どのようなことを話しているのだろうと考えた。
その疑問へ答えを探すより先に次の型を始めるよう声が掛かり、小依はいつものように「はい」と返事をして道場の中央へ戻った。
午後、茶の稽古が予定より少し早く終わったため、小依には珍しく琴の稽古まで十五分ほどの空き時間ができた。
自室へ戻れば本を開くか次の稽古の予習をしてしまう気がしたので、小依は途中の縁側へ腰を下ろし、庭へ流れる水の音を聞きながら束の間の空白を過ごすことにした。
朝には露を抱えていた杉苔も、昼の日差しを受けて表面が乾き始めていたが、石の陰に生えた苔だけはまだ深い緑を保ち、細い水路の縁では小さな露草が青い花を二つ咲かせている。
流れへ落ちた紅葉の若葉が一枚、水面を滑っていた。
石に触れれば一度止まり、水に押されると向きを変え、また次の石まで流されていく。
小依はその葉がどこまで行くのかを何となく目で追い、やがて池へ流れ込んで見えなくなるところまで眺めていた。
そのとき、屋敷の外から何人もの子供たちの声が聞こえてきた。
高い塀に遮られて姿までは見えないものの、誰かを追いかけるような笑い声や、遠くから友人の名を呼ぶ声が重なり、ときおり地面を何かが転がる軽い音も聞こえてくる。
「待てって!」
甲高い声が響いたあと、何人かが一斉に笑った。
小依は膝の上へ両手を重ねたまま、少しだけ首を傾けた。
鬼ごっこなのかもしれないし、球を使った遊びなのかもしれないが、実際にそうした遊びをした経験がないため、声だけでは何をしているのか判断できなかった。
昔、絵巻や教材の挿絵で、子供たちが外を走り回って遊ぶ姿を見たことはある。
楽しそうだと思った。
実際には、どのようなものなのだろう。
庭の端まで歩けば、塀の一部にある格子の隙間から外が見えるかもしれないと考え、小依は膝へ置いていた手を縁側について身体を起こしかけた。
「小依様、琴のお支度が整いました」
背後から掛けられた声に、小依は動きを止め、そのまま振り返った。
「まあ、もうそのような時間ですか」
「はい。先生もお待ちでございます」
「分かりました、すぐ参りますね」
小依は微笑んで立ち上がり、着物の裾を整えてから廊下へ戻った。
塀の向こうではまだ子供たちの笑い声が続いていたが、先生を待たせるわけにはいかないので、小依は足を止めることなく琴の間へ向かった。
夕刻、母と共に客人を見送ったあと、小依は父から書斎へ来るように言われた。
書斎へ入ると父と母がすでに向かい合って座っており、机の上には三人分の茶が用意されていたため、小依は何か少し大切な話があるのだろうと察した。
「こちらへ座りなさい、小依」
「はい、お父様」
父の向かいへ正座すると、母がどこか嬉しそうに小依を見つめており、父もまた普段より口元を緩ませていた。
「まだ正式に決まったわけではないのだが、お前にも先に話しておこうと思ってな」
父はそう前置きしながら湯呑みへ一度視線を落とし、それから改めて小依の顔を見た。
「領主様の御一族より、お前との縁談についてお話をいただいている」
その言葉を聞いた瞬間、小依は驚きよりも先に、なるほど今日の客人が長く滞在していたのはそのためだったのかと納得した。
「……まあ」
自分でも意外なほど穏やかな声が出た。
父はその反応を悪く受け取らなかったらしく、安心したように表情を緩めると、先方が小依の教養や作法、武芸の評判まで耳にしていることを嬉しそうに話し始めた。
「これがまとまれば、篠倉にとってこれ以上ない縁となる。お前の弟たちにも、今までより良い道を用意してやれるかもしれぬ」
その言葉を聞いた小依は幼い弟たちの顔を思い浮かべ、自分の婚姻によって家族が少しでも安心して暮らせるのなら、それは確かに良いことなのだろうと思った。
母が身を寄せ、小依の手を両手で包む。
「小依、本当に立派になりましたね。小さいころは、あんなに泣き虫でしたのに」
「お母様、そのお話はもうよしてください」
「ふふ、だって本当のことですもの」
少し照れながら笑う小依を見て、父も珍しく声を立てて笑った。
両親がこれほど喜んでいる姿を見ると、小依の胸にも温かいものが広がり、自分がここまで学んできたことのすべてが、ようやく家族の役に立つのだと思えた。
「もちろん、まだ正式な話ではない」
父はしばらくして声を少し柔らげ、小依の表情を窺うように続けた。
「最終的に決めるのはお前だ。もし本当に嫌なのであれば、無理に受ける必要はない」
小依はすぐには答えず、父と母の顔を交互に見た。
二人とも優しい顔をしており、父が自分を無理やり嫁がせようとしているわけではないことも、母が娘より家を大切にしているわけではないことも、小依にはよく分かっていた。
だからこそ、自分はどうしたいのだろうと考えた。
胸の中で「嫌」という言葉を探してみたものの、それが自分のどの感情に当たるのか、すぐには分からなかった。
領主家へ嫁げば父は喜び、母も安心し、弟たちの将来にも良い影響があり、篠倉家にとってもこれ以上ない縁なのだという。
自分はそのために多くのことを学び、どこへ嫁いでも恥ずかしくない娘になれるよう、今日まで大切に育ててもらった。
そう考えれば、拒む理由などないように思えた。
「いいえ」
小依はやがて穏やかに微笑み、両親を安心させるように小さく首を振った。
「篠倉にとって、とても良いお話なのだと思いますし、私がお役に立てるのであれば、それは嬉しいことでございます」
その返事を聞いた父の顔は見る間に明るくなり、母もほっと息を吐いてから、小依の手を先ほどより強く握った。
夜になり、寝支度を終えて布団へ入った小依は、いつもならすぐ訪れるはずの眠気がなかなか来ないことを不思議に思っていた。
不安なのかと考えてみても胸が苦しいわけではなく、悲しいのかと尋ねられても涙が出る気配などなく、ただ頭のどこかだけが妙に冴えている。
しばらく天井を眺めたあと、小依は身体を起こして硝子戸を少し開け、夜の冷たい空気を部屋へ招き入れた。
昼間に陽を受けていた庭はすっかり色を失い、杉苔は月明かりの下で黒に近い深緑へ沈み、紅葉の若葉だけが風を受けるたびに裏側の白さをちらちらと覗かせている。
水路は暗闇の中でも絶えず流れており、昼には底まで見えていた水が今は月の光だけを細長く映し、石へ触れるたびに銀色の筋を細かく崩していた。
その流れを辿った先には、庭の池がある。
岸辺には菖蒲の細長い葉が群れて伸び、その間から水面へ張り出した枝の影が揺れ、池の隅では睡蓮の丸い葉がいくつも重なっていた。
まだ花の時期には少し早い。
けれど一枚の葉の脇には、小さな蕾が水面すれすれまで上がっていた。
小依は羽織を肩へ掛けて縁側へ出ると、冷えた板へ静かに腰を下ろし、昼間とはまるで違う庭の姿を眺めた。
池の水面には欠けた月が映っている。
風が止めば輪郭を取り戻し、水路から新しい水が流れ込めば細かく揺れ、魚が水面近くを通れば月そのものが割れたように形を崩した。
やがて一匹の魚が睡蓮の葉の下から現れ、月の映る場所を避けるでもなく、尾をゆっくり振りながら池の中央へ進んでいった。
あの魚については、昔、庭師の源造から聞いたことがある。
もともとは玄関先の水鉢で飼われていた小さな魚だったが、ある年の激しい雨で水が縁を越え、その拍子に鉢の外へ飛び出したあと、庭の排水路へ落ち、そのままこの池まで流れ着いたのだという。
水鉢は今でも玄関先に置かれている。
大人が両腕で抱えられるほどの青磁の鉢で、夏になると浮草が水面を覆い、端には小さな花をつける。
魚が暮らすには十分な水があり、毎日餌も与えられ、猫に襲われないよう置き場所まで考えられているので、決して悪い場所ではない。
それでも、今その魚が泳いでいる庭池と比べれば、あまりにも小さい。
池には水路から絶えず新しい水が入り、菖蒲の根元には小さな虫が集まり、睡蓮の葉の下には日陰があり、底へ潜れば小石や水草の間を好きなだけ泳ぐことができる。
小依は膝を抱くこともなく、いつものように背筋を伸ばして座ったまま、月の下を泳ぐ魚を目で追った。
「……あなたは、こちらへ来たかったのでしょうか」
誰に聞かせるでもなく尋ねると、魚は当然何も答えず、睡蓮の葉の下へ身体を潜らせて姿を消した。
水鉢が嫌だったのだろうか。
それとも、あの日に雨が降らなければ、今でも水鉢の中を何の不満もなく泳いでいたのだろうか。
庭池という場所があることさえ知らなかった魚に、そこへ行きたいという願いを持つことなどできたのだろうか。
小依はそこまで考えてから、自分が魚を相手に随分と妙なことを考えているのがおかしくなり、誰もいない庭で小さく笑った。
「そんなこと、分かるはずがありませんよねぇ」
夜風が池の上を渡り、菖蒲の葉を擦り合わせたあと、小依の頬へ冷たく触れて長い髪を揺らした。
婚姻の話は、きっと良い話なのだろう。
父も母も喜んでおり、自分が篠倉家の役に立てるのだから、不満を抱く理由など何もないはずだった。
それでも小依は、昼間に塀の向こうから聞こえてきた子供たちの笑い声や、朝に高い塀を何のためらいもなく越えていった雀、それから水に押されながら池まで流れていった一枚の若葉を、その夜だけは何度も思い出していた。
領主家へ嫁げば今より大きな屋敷で暮らすことになるかもしれず、より美しい庭を眺め、より多くの教師や使用人に囲まれ、篠倉家の娘として誰もが羨むような暮らしを送ることになるのかもしれない。
けれど、どれほど水鉢を大きくしたところで、その外側に何があるのかを知らなければ、自分がそこを好いているのかどうかさえ分からないのではないかと、小依は初めてそんなことを考えた。
だから領主家へ嫁ぐ前に、ほんの一度でも自分の足で門の向こうへ出て、書物の挿絵ではなく本物の川を眺め、教材に名前だけ載っていた草花へ触れ、自分とは違う暮らしをしている人々の声を近くで聞いてみたい。
それが自由を求める気持ちなのか、小さなわがままなのか、それとも明日の朝には消えてしまう程度の好奇心なのか、小依自身にもまだ分からなかった。
ただ、その夜初めて胸の奥へ生まれた思いだけは、いつものように誰かの都合や明日の予定を考えて蓋をすることができず、小依は睡蓮の葉の下から再び姿を現した魚を眺めながら、夜が深くなるまで静かにそこへ座っていた。
コメント
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ああ、これは…とても静かで、それでいて胸の奥にじわっと広がるようなお話でしたね。 まず何より、篠倉家という閉じた世界の描き方が丁寧で、朝の光や水の音、庭師の鋏のリズムから「小依にとっての当たり前」が肌に染みるように伝わってきました。それだけに、夜の池で魚に「あなたは、こちらへ来たかったのでしょうか」と問いかけるシーンの静かな切なさが際立ちます。 水鉢から流れ着いた魚と、縁談という流れに身を任せようとしている小依が重なる。でも小依は魚と違って「知らないこと」に気づいてしまった。そこから先がすごく気になります。続き、読みたいです。