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「おい、錆人、偽装結婚やめるらしいぞ」
閉店間際。
客が少なくなったスープ屋で船木が言う。
「それはたぶん、偽装でなく、真剣に付き合って結婚しようという意味なのでは?
だが、それを月花に教えるべきかどうかは悩むな」
と西浦が言った。
「……俺の中で天使と悪魔が囁いてるな」
黙ってると、胸が痛む、と船木が呟くと、三田村が笑顔で、
「僕はなにも痛まないよ。
僕の中には悪魔しかいないのかな」
と言う。
「どうしよう。
僕、まるで人でなしみたいだね」
「お前はそういう奴だよ」
驚かない、と二人ともが言った。
「お前は人の心がないよな。
待てよ。
そういえば錆人もこの前、似たようなことを言っていたな」
そう西浦が言い出す。
「『これが愛?』って初めて思ったって。
お前たち、似ていないようで、やはり兄弟、似ているな」
西浦たちにも、もう錆人と三田村が兄弟だと知れていた。
「月花は心のない奴に愛される運命なのかな」
……あの、それらの会話を全て私の前でやっているのはどうなんでしょうね、と思いながら、月花は鮭とカブのミルクスープをすすっていた。
その少し前――
「いや~、やはりそうでしたか~。
なんか違う気がしたんですよね」
はは、と下請け工場の人たちやデザイナーさんたちが笑う。
錆人は、月花が偽物だったとバラし、謝ったのだが。
「すみません。
我々のせいで、気を使わせてしまって」
と逆に謝られてしまった。
だが、工場の若い男性社員は言う。
「でも、よかったですね。
おかげで、月花さんと巡り会えて。
あの方、なかなか出会えないような、とても素敵な方ではないですか」
……まあ、いろんな意味で、と錆人は苦笑いする。
みんなは、ああ言ってくれたし。
三田村さんもなんだかんだで、否定しなかったけど。
専務が本気になったから、偽装結婚をやめようと言い出したとか。
そんないい解釈をしていいものだろうか?
だいたい、私なんかを、あんな人が好きになるかな?
私に呆れて、偽装結婚すらやめとこうと思っただけなのでは?
なにがいけなかったのだろうかな? と月花は考える。
ハンモック?
猫の足跡?
プラネタリウム?
「あえて言うなら、鍋を洗わせたことでは……」
と船木がメガネをクイッとやりながら、言いそうなことを月花は真剣に悩む。
最初は混乱した偽装結婚だけど。
やらなくていいと言われてしまうと、寂しくなるな。
もうマリコさんにも、専務のご親戚の方々にも会えなくなるのか。
常務にも。
あ、常務は会社にいたか。
……なんか私の中であの二人、ペアだからな。
美味しい藤樫家のご馳走も。
花咲き乱れる中のブランコも。
違うか。
それらすべてと離れがたいと思ってしまうのは、その景色の中の何処にも専務がいたからだろうか。
部屋のカウンターの上に置いていた電話が鳴った。
「今何処だ?」
専務っ、と月花は飛び上がる。
「い、今更なんのご用ですかっ?」
今更、私なんかになんの用なんですか、とへりくだったつもりだったのだが――。
「……なに喧嘩売ってんだ」
と言われてしまった。
「あ、すみません。
だって、もう偽装結婚はしなくてもいいんですよね?」
「そうだ。
ドレスも展示用にしてもらうことにした。
……だからその、新しいドレスを作ろうじゃないか」
「何故ですか?」
「何故って……
えー。
何故なんだろうな。
うん。
……何故なのか、日曜までに考えとくよ」
と錆人は不思議なことを言う。
珍しく歯切れも悪い。
「日曜、暇なら、ドレス作りに行かないか?」
日曜、暇なら、映画でも見に行かない? とか、
ランチしない? ならよく聞くのだが。
暇ならドレス作りに行かないかって、はじめてきいたな、と思いながら、黙っていると、
「そのあとで、ポン吉かゴンザレスにでも会いに行かないか?」
と錆人は訊いてくる。
「……え、人間の?」
「人間のポン吉は俺で、ゴンザレスはあいつだろうがっ」
タヌキとカメだよっ、と昔話かな? みたいなことを言って、錆人は電話を切った。
いざとなったら、言えないな。
携帯を切った錆人は、部屋でひとり、深い溜息をついていた。
いきなりキス、とかならできるのに。
この思いを言葉にすることが、恥ずかしくて、とてもできないっ。
こんなに奥手では、この恋は上手くいかないのでないだろうかっ、と、
「……いや、何処が奥手だ」
と西浦辺りに後ろから膝カックンされそうなことを思って苦悩していた。
ドレス……。
何故、専務はドレスを作りに行こうなんて言うのだろうか。
もしかして、船木さんたちが言ってることがほんとうで。
専務はほんとうに結婚しようとしてくれているとか?
いやいやいやっ。
そんなことを考えるとか、おこがましいっ、と思いながら、職場の廊下を歩いていた月花は正面から来た人物に、
「おはようございます」
と反射で挨拶してから、あれ? と思った。
周囲を見回す。
「ここ、雑炊屋?
……か、実はまだ寝てて夢の中とか?」
とつい、声に出してしまったのは、目の前に立っているスーツ姿の三田村に、その答えを言って欲しかったからか。
ははは、と三田村は笑う。
「これが夢なら、今、君の隣に寝ているのは、僕なのかもしれないね」
そんなことを言いながら、三田村は月花の手をとろうとする。
「朝っぱらからなに言ってんだ」
月花の後ろから長い手が伸び、三田村の額を押した。
月花を三田村から遠ざける。
「おやおや、お兄ちゃん、おはよう」
三田村が錆人にそう言うと、
おにいちゃん?
えっ?
おにいちゃん?
と近くを通りかかった他の秘書の人たちや役員の人たちが二人を二度見する。
「なにしに来た、唐人~っ」
「いやいや、あれからいろいろ考えたんだよ。
どうも月花の心は、おにいちゃんの方に傾いている気がして」
「えっ? そうなのかっ?」
と錆人が身を乗り出すと、言わなきゃよかった、という顔を三田村はした。
「もしかして、月花は雑炊屋の女将さんになるより、有能な秘書でいたいなのかなと思って。
だったら、僕は、月花に支えられるような立派な役員になろうかなと思ってさ」
「いやいやいや、いきなりなれるわけがないだろう」
そう言いかけた錆人だったが。
いや、なれるか。
自分も若造のくせに、七光でなっているしなっ、と気がついたようだった。
「そもそも、こいつ、月花に出会って雑炊屋になるまでは普通に会社で働いてたからな……」
と不安そうな顔をする。
「なんの騒ぎだ」
とそのとき、常務が現れた。
常務っ!
常務っ!
やはり、この人、どっしり貫禄があって、落ち着き払ってていいっ!
頼り甲斐があるっ、と月花と錆人は振り返る。
錆人が、常務に、
「常務っ、俺の花嫁が横取りされようとしていますっ」
と訴える。
「なにっ?
彼女は花嫁としても優秀なのかねっ」
私の秘書としてやってきたのに、君が横取りしていたがっ、と常務が言う。
この二人、なんだかんだで息合ってるな。
しかし、花嫁として優秀って、どんな感じなんだろうな……、と思いながら、月花は三田村に訴えてみた。
彼が彼自身の理想とする人生から脱線していきそうに見えたからだ。
「あのー、三田村さん、雑炊屋の仕事が夢があって好きだっておっしゃってませんでしたっけ?」
「雑炊屋をやってたから、いつか、月花に愛されるかもしれないから夢があると思ってただけだよ。
あとお客さんたちがついでに笑ってくれたら」
……ついでに、と野次馬たちの何人かが残念そうな顔をした。
雑炊屋の常連かもしれない。
「あ、雑炊屋さん」
と新たにやってきた野次馬たちも、三田村に気づいて呟いている。
月花は三田村の手を握って言った。
「三田村さん、ほんとは好きでしょ?
お客さんや従業員さんたちの笑顔。
三田村さんも、西浦さんも船木さんも――。
いつも、お客さんや従業員さんたちの笑顔を受けて、笑ってらっしゃいますよね。
私は、そういうときのみなさんの笑顔が、とても好きなんです」
月花……と三田村は強く手を握り返してくる。
「僕はそうして、僕を見つめて笑ってくれる君が好きだ。
君の笑顔が好きだ。
君が好きだ。
その笑顔が見られるなら――
僕は、一生雑炊屋でいるよ」
常務が後ろで、
「君より彼女の方が人心掌握術に長けてないかね?」
と錆人に言うのが聞こえてきた。
こうして、あっさり三田村ゴンザレス唐人の乱は終わった――。
「まあ、しょうがないよね。
お客さまの笑顔は見て嬉しいものだからね。
なんか仕事やり遂げたって感じがするし。
でも――
そのお客さまの中に君も含まれているから続けるだけだからね」
とツンデレな感じのことを言って三田村は去ろうとした。
「雑炊屋さん、この間リクエストしたゴーヤ雑炊は?」
「雑炊屋さん、デザート増やそうよ」
と客たちに絡まれて、なかなか去れなかったようだが。
それもこれも、いつもなんだかんだで三田村が客の意見を真摯に取り入れているからだろうが――。