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茉莉奈は信武の決意を汲んでくれたのか、ほぅっと吐息を落とすと、差し出したままにしていた信武の手に、勝手に預かっていたこの部屋の鍵を握らせてくれた。
***
「――ところで信武。例の新作なんだけど……前に渡したの、役に立ちそう?」
気持ちを切り替えたように声のトーンを変えて聞かれて、「ああ」と答えた信武は、机上に置かれた文庫本へ視線を流す。
あれについてもまだ日和美にしっかり説明できていなかったし、今日マンションへ彼女を招いたら、そこも含めてちゃんと説明しなきゃな、と思って。
そもそも沢山言わなきゃいけないことがあり過ぎて、何からどう話すのがベストなのかと考えたら、ちょっぴり頭が痛くなった信武だ。
「――ねぇ信武。その様子だと……もしかして私たちの関係も含めて全部あの子に話すつもりでいる?」
信武が眉根を寄せて黙り込んだのを見て、茉莉奈が心配そうに問いかけてくるから。
信武は「ああ、そのつもりだ」と答えた。
茉莉奈は信武の返答に吐息を落とすと、「信武がいいんなら私は止めないけど……。でも、他には絶対漏らさないって約束はしてもらって? でないと、ふたりで長いことかけて作り上げてきた貴方の作家像が崩れちゃう」と釘を刺してくる。
そんなことは信武だって百も承知だ。
そもそも――。
茉莉奈との秘密を打ち明けたら、日和美にだって少なからずショックを与えることは否めない。
だけど――そんなリスクを冒してでも、日和美に隠し事をするのはもう嫌だと思ってしまったのだから、仕方がないではないか。
***
信武から家で待つように言われた日和美は、モヤモヤとした気持ちを抱えたままアパートへ戻ってきた。
信武がアパートへいる時には何だかんだで進まなかった読書が、信武に会えない日々が続いて捗ったのは悲しい不可抗力だ。
本人が目の前にいると思うと、どうしても気恥ずかしくて職場で読み進めていた『ある茶葉店店主の淫らな劣情』はそれゆえに読むのに結構時間が掛かってしまった。
他に積んでいた本数冊も、信武が帰って来られなくなってからは家でゆっくり読む時間が取れて早々に読了することができた。
その中の一冊。
信武には何となく言いそびれていたけれど、多賀谷が言っていた、サイン会の抽選券付き新刊『誘いかける蜜口』も、随分前には購入していた日和美だ。
立神信武の著書には茶葉店の話で初めて触れたはずなのに、何故かとても読みやすく懐かしい感じがして。
積読していた蜜口も、機会に恵まれた途端あっという間に読み終えてしまっていた。
信武と会えない日々が。彼に会いたいという気持ちが。読書スピードとともに日和美のクジ運を高めたのだろうか。
サイン会主催者側書店のスタッフだとか、そういうチート機能なんて一切なしに、純粋に倍率二倍強だった信武のサイン会抽選に当選したと知った時、これは運命かも知れないと思った日和美だ。
信武本人へ、サイン会にファンの一人として参加することを告げなかったのは、彼を驚かせたかったからに他ならない。
最後尾に並びたくて、わざと時間ギリギリに行ったのだって、計算ずくだった。
なのに――。
あんな形で自分が驚かされる側になるだなんて誰が想像出来ただろう。
「信武さんのバカ……」
吐息混じりに言いながらも、しっかり彼から言われた通りお泊まり支度をしてしまったのには、ちゃんと理由がある。
「こんなの書かれたら……信じたくなるじゃん」
信武に、半ば奪われるようにして書かれた『誘いかける蜜口』の表紙裏見返し部分にサインとともに書かれた『お前のことが好きだ。俺を信じろ』というメッセージ。
そんな言葉を残されて、塩対応なんて出来るはずがない。
***
信武がアパートに日和美を迎えに行くと、案外すんなり玄関扉が開かれた。
「……お疲れ様です」
「え……?」
避けられたり無視されたりすることはあっても、まさか日和美からそんな風に開口一番労ってもらえるだなんて思っていなかった信武は、小さな声でぽそりと落とされた彼女からの言葉に思わず驚きの声を上げて。
すぐさま日和美に、「お仕事で遅くなられたんじゃないんですか?」と窺うような視線を送られてしまう。
もちろんその通りだったので、誤解はされたくない。
「いや。実際そうなんだけどさ。……その、連絡もなしに長いこと待たせちまってたからお前、てっきり怒ってるかと思ってたんだよ。……迎えに行くから待っとけとか誘ったくせに放置とか……ホントすまん」
すぐさまそう付け加えた信武に、日和美は「サインに添えられていたメッセージがなかったら……怒ってたかもしれません」と吐息を落とす。
「あれはズルいです……。あんなんされたら怒れません」
昼過ぎに別れたのに、結局仕事を終えた信武が日和美を迎えに来られたのは二十時を過ぎてからだった。
やるべきことを早く終わらせることに全神経を集中した結果、信武は茉莉奈を家から追い出すまで日和美に何の連絡も出来ていなかったのだ。
実際、執筆作業に集中し過ぎていて、そんなに時間が経っていたことにも、原稿を上げるまで気付けなかった信武だ。
アパート廊下には住人共有の外灯が灯っていたし、日和美の部屋のなかも明るい。
辺りはすっかり暗くなっていたけれど、お互いの顔が見えない不便さはないのだけれど。
日和美がまるで表情を見られたくないみたいに顔を伏せ気味にしてポツンと「怒れません」とかつぶやくから。
信武は色々な思いと葛藤しながらも、自分を信じてくれようとしている彼女のことが、愛しくて堪らなくなる。
「あれは、紛れもなく俺の本心だ。お前、きっといま色々思ってるだろうけどさ。……信じてくれて構わねぇから」
感極まった信武は日和美をギュッと腕の中に抱き締めて。
「俺、絶対お前を納得させっから」
吐息を落とすみたいにそう吐き捨てた声は、
「し、のぶさっ、苦し……っ」
信武の胸元でくぐもった声を上げてじたばたしている日和美には、聞こえなかったかも知れない。
だけど、信武はそんなことは些末なことだと思ってしまった。
***
徒歩一〇分圏内の滅茶苦茶近い距離なのに、はやる気持ちが抑えられなくて、日和美のことを車で迎えに来てしまった信武だ。
「とりあえず乗れよ」
「は、はいっ。お邪魔します……。って、あ、あのっ、信武さんっ。く、靴はっ。靴は脱いだ方がいいですか?」
アパート下に停めていた黒のSUV車の助手席ドアを開けて日和美を車内へ誘ったら、シートへ中途半端に腰かけた状態で泣きそうな顔をした彼女から、困惑顔で見上げられてしまった。