Sideジェシー
思ってもいないのに勝手に脳内で彼女の声が再生される。
――ジェスじゃなきゃ嫌――。
そんな陳腐な台詞聞いたって、俺の心は変わんねえよ……。
心の中の悪魔は言っていた。
俺も、君とじゃなきゃいたくない……。
一方の天使はそう言っていた。
どうしたらいいんだ、と自分から振っておいて葛藤が渦巻く。ソファーに寝そべりながら天井を見つめた。
玄関のドアがガチャリと開く音がした。
「こんばんは」
聞き慣れたヘルパーさんの声。マスターキーでいつでも入れる。
「…こんばんは、お願いします」
寝転んだまま言った俺を見て、怪訝そうな顔をする。「どうしたんですか。もしかして体調悪いですか?」
「いえ、全然大丈夫です」
上半身を起こす。
「晩ご飯何にします?」
何でもいいですよ、と答えると、
「またそれですかぁ。何だかんだ言ってそれが一番やりづらいんですよー」
すいません、と笑った。「なんか…あんまり食欲ない感じなのでラーメンでいいです」
「そうですか」
ストックしてあるインスタントラーメンなら自分で作れそうだが、調理する自信はない。
「ジェシーさん、今日なんかおかしいですよ? どうかしましたか」
キッチンに向かったまま訊いてくる。
彼が担当になって数年経った。今までで一番仲が良くなり、信頼のおけるヘルパーさんだ。だからこそそう問われ、言葉に詰まった。
「やっぱり。話せる範囲でいいですから、僕で良かったら聞きますよ」
ゆっくり口を開いた。
「めちゃくちゃ私事ですけど」と前置きする。
「こないだ、彼女を振っちゃって。幼馴染だから小っちゃいときからずっと一緒にいて。初恋相手とも言うのかな。でももし結婚して、これからも隣にいるんだったら迷惑とか負担かけるよなって考えて、関係を切ろうと思ったんです」
一息ついて続ける。
「でもこの数日間、ずっとよく分かんない感情があって。寂しい気がするのにやっぱり離れたい。でもちょっと会いたい…。あの人が最初の恋愛だったから何も分からなくて」
静かに聞いていたヘルパーさんは、
「……番号は残ってますか?」
番号?と問い返す。
「スマホの番号です」
「ああ…。なんか消すのも心苦しくて、残してます。やっぱ未練があるんですかね」
自嘲気味に口角を上げてみる。
「一回電話してみたらどうですか。ちょっと気持ち変わるかもしれないですよ」
それはいくら何でも、と首をひねった。
「彼女さんは別れるのに肯定的だったんですか?」
「いや…。俺じゃないと嫌だ、って言われました」
「じゃあなおさら連絡したほうがいいですよ。完全にシャットアウトしちゃうんじゃなくて、せめて友達くらいで留めておいたらいいじゃないですか」
考えておきます、と薄く笑った。
スマホを持ったままボーっと暗い画面を見る。
ヘルパーさんに作ってもらった夕食を食べたあと、いざ電話を掛けようと思ったけれど、勇気が湧かなかった。
「はあ…」
やっぱりそんなこと無理だ、とスマホをソファーにポンと置いたところだった。
急に着信音が鳴り響く。その液晶に映し出された名前を見て、「え…」と間の抜けた声が出る。
恐る恐る取った。
相手は慎重に、「……ジェシー…?」と訊いた。
散々聞き慣れた彼女の声だった。少し高めで、か細くて、守ってあげたくなるような。
「…うん」
ふっと息を吐く音がする。
「…あのね、なんか、声が聴きたくなっちゃって。急にごめんね」
もじもじする姿が思い浮かぶ。
「俺も」
知らないうちに口が開いていた。
「やっぱり寂しかった。今そばにいればなって…。あの、ごめんな、思いきり突き放して。もう遅いかもしれないけど…好きだから戻ってきてくれないか」
僅かの沈黙が降りかかる。迷っているのか困っているのか分からなくて、胸がきつく締めつけられた。
「私から言い出したんじゃないんだから……いつでもそっちに行くよ」
その言葉に、思わず涙腺が緩みそうになった。「ありがとう」
「おかえりなさい」
大好きな声が周りを包む。冷えかかっていた心が、ふんわりとじんわりと温まっていくようだった。
「ねえ、おかえりって英語で何て言うの?」
突然そんなことを訊かれても、あたふたして出てこない。
「えっ、何かな…、”Welcome back”だったかな」
「ふうん。ウェルカムバックね」
あまり英語が得意ではない彼女の発音に、思わず笑いが込み上げる。
「もうジェス、何笑ってるの!」
「だって面白いんだもん、AHAHA!」
楽しそうな2人の笑声が、電話越しに交差した。
終わり
完結