テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「まだ、人生終わってないから」
仕事を辞めて一年が経つ。親の介護や自分の心身の不調が重なり、気がつけば家の中にひとり閉じこもる日々になっていた。
晴れた日は窓を少し開けて、近所の児童公園から聞こえてくる子どもたちの笑い声やボールを蹴る音、どこかの犬の鳴き声に耳を澄まして過ごしていた。
「このまま、何もしないまま年を取っていくのかな」
ときどき、そんな思いが胸をよぎる。
何も変わらない今日が、少しだけ不安で、静かに寂しい。
***
ある朝、なんとなく足が向いた先で、ふと思い出のカフェの前に立っていた。
最後に誰かとちゃんと話したのは、もう半年も前だった。
カフェの窓際のテーブルには、いつも通り新聞や本が積み上がっている。その隅に座る小柄な店主が、碧に気づいて穏やかに微笑んだ。
「碧くん、お久しぶりだね。」
「……あ、はい。久しぶりです。」
湊(みなと)はカフェの店主。高校の同級生で、昔から碧のことを気にかけてくれる存在だった。
気まずさと安心が混ざったような気持ちで、碧はココアを一杯注文する。
「最近、どうしてた?」
ふいに湊が声をかける。碧はカップを両手で包みながら小さくため息をついた。
「……何もしてない。なんだか、いつも同じ場所にいる気がして」
「でも、こうしてカフェに来ただけで、もう昨日の自分とは違うじゃない?」
冗談のような、でもどこか真っ直ぐな湊の言葉に、碧は口元をほころばせた。
「そんなもの、かな」
「うん。人生、何度だって舵を切り直せるよ。まだ、全然終わってないから」
誰かにそう言われたのは、ずいぶん久しぶりだった。
少し涙が出そうになりながらも、碧はぐっとこらえた。
***
店を出ると、空はきれいに晴れていた。
歩道に続く影がのびている。
帰り道、子どもたちがサッカーボールを蹴っているのを見て、碧は少しだけ足を止める。
ふと気づくと、顔見知りの男の子がボールを落として困っていた。
「どうしたの?」
「ボール、側溝に落ちちゃった……」
「よし、取ってあげるよ」
久しぶりに誰かのために体を動かした。土ぼこりの中からボールを拾い上げて「はい」と渡すと、男の子が嬉しそうに「ありがとう!」と笑った。
その笑顔を見ていると、不思議と自分の胸にも小さな灯りがともった気がした。
***
家に帰る途中、「また明日もあのカフェに行こうかな」と碧は思った。
ほんの少しだけ、今度は誰かに「おはよう」と声をかけてみよう。
そして、「まだ、人生終わってないから」。
小さく、けれど確かにそう呟いた。
歩くたびに、世界は少しずつ新しくなっていく。
自分の人生も、人知れずまた、動き出していた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!