「なんだよ、女たらしって……。俺がそういう人間じゃないことは知っているくせに。ったく、人聞きの悪い」と玲伊さん。
でも、その声には少し笑いを含んでいて、本気で抗議しているふうでもない。
「さあ、どうだか。火のないところに煙は立たないって言うし。だがよそで何をしようがお前の勝手だが、優紀を泣かせるようなことをしたら、容赦しないからな」
「もう、お兄ちゃん!」
わたしは兄の手を振り払うと、玲伊さんに頭を下げた。
「すみません。兄が失礼なことばかり言って」
「いや、浩太郎の口が悪いのは昔からだから」
玲伊さんは涼しい顔で「はい」と言って、さっきわたしが取ろうとしていた本を手渡してくれた。
「そういえば、ばあちゃんは?」と兄がわたしに尋ねた。
「ついさっき、眼科に出かけたよ。道で会わなかった?」
「えー、なんだよ。ばあちゃんに呼ばれたから、わざわざ来てやったのに」
「たぶん1時間ぐらいしたら戻ってくるよ」
「屋根裏から衣装ケースを出してほしいとか言ってたんだけど、優紀、聞いてないか?」
「なんにも聞いてないよ」
「ふーん、じゃあ『アンジェ』で潰してるから、ばあちゃんが帰ってきたら呼びに来てくれ」
「うん、わかった」
『アンジェ』はこの商店街に古くからある喫茶店。
店主の白石さんは三代目で、お兄ちゃんや玲伊さんの同級生。
うちとどっちが先につぶれるか、なんてふざけて言いあっていたのだけれど、レトロ喫茶店ブームで、最近、若いお客さんが増えているそうだ。
うちも同じくらいレトロなんだから、人が集まってくれればいいんだけど。
「玲伊もいかないか?」
「いや、この後、予約が入ってるから、ちょっと無理。白石によろしく言っておいてくれ」
「あいかわらず忙しい奴だな」
「そういうお前も忙しいだろう。合宿はまだなのか?」
「ああ、来週からだ。戻ったら連絡するよ。久しぶりに飲みに行こうや」
「ああ」
オリンピック強化合宿のコーチに選ばれた兄は、しばらく東京を離れる予定になっていた。
兄が出ていってから、玲伊さんはあらためてわたしに言った。
「優ちゃん。注文した本が届いたって藍子さんから連絡もらったんだけど」
そう言って、にっこり微笑む彼を正面からまともに目にしたとたん、やっぱり心臓が勝手に反応して誤作動を起こしそうになる。
とにかく魅力的すぎるのだ、この人は。
彼が道を歩いていれば、男女問わず誰もが振り返る、それほどの美貌の持ち主だ。
子供のころ、兄と玲伊さんに交じって、わたしも一緒にこの本屋でよく遊んだ。
漫画を立ち読みしたり、宿題を教えてもらったりした。
そして……
実を言えば、彼はわたしの初恋の人。
玲伊さんのお嫁さんになりたいって、ずっと思っていた。
本当のことを言えば、今でもその気持ちは変わっていない。
25歳の今日まで、彼以上に好きになれる人が現れず、男の人と付き合ったことは一度もなかった。
でも……
大人になった今、玲伊さんと結ばれるなんて、まったく見込みのない夢だということは、自分でもよくわかっている。
だって、しがない本屋の店員の、なんの取り柄もないわたしが、カリスマ美容師にして御曹司である彼と釣り合うはずがない。
だから最近、ちょっと困っていた。
〈リインカネーション〉が開業して以来、彼がうちの店にしょっちゅう顔を出してくれるようになったから。