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ここは彼の店まで徒歩3分もかからないから、たしかに近い。
でもまさかこの弱小書店に忙しい玲伊さんが|頻繁《ひんぱん》に顔を出してくれるなんて、思ってもみなかった。
わたしにとって、彼は遠い過去の思い出の中にいる人だった。
でもこう、しょっちゅう顔を合わせてしまうと、昔の恋心が再燃してしまって、本当に困るのだ。
でも、でも!
玲伊さんがはるかかなたの遠い存在で、雲の上の人であることは間違いのない事実。
というわけで、彼と接するときは、なるべく距離を置くようにしていた。
下手に親しくなりすぎてしまうと、後々、想いが叶わないことで、身を引き割かれるほどつらくなってしまうのは分かりきっていることだったから。
もう、会社にいた時のように他人に心を乱されるのは勘弁してほしかった。
たとえ、それが大好きな玲伊さんであっても。
この、時代から取り残された書店のように、誰からも顧みられないで、ひとり静かに暮らしていきたい。
そのときのわたしは、本心から、そう思っていた。
わたしはレジに戻り、ミステリ小説で凶器に使えそうなほど分厚い本を後ろの棚から出し、レジ横の机の上に置いた。
「これですね。えっと、十六万五千円……わ、高っ」
玲伊さんは財布から一万円札の束を取りだした。
「ほとんど誰も読まないような専門書だからね。あ、領収書、書いてくれる?」
「ちょっと待ってください」
収入印紙、確かこの辺に……
5万円以上の領収書なんて、ほとんど書かないから。
「あ、あった!」
「面倒かけるね」
「いえ、こちらのせいですから。いまだにクレジットカード対応してないから」
「いや、昔のままだからいいんだよ、ここは」
そう言いながら、ふっと微笑まれたりすると、いやでも心臓がばくつく。
とにかく、とにかく素敵すぎて困る。
髪の色はダークブラウン。
清潔感のあるショートヘア。
センターで分けた前髪からのぞく額が美しい。
それ以外の顔立ちもいたって端正だ。
綺麗な形の眉毛と切れ長で二重瞼の眼。
鼻梁はすっと通り、下唇だけほんの少し厚め。
もう、本当に「ずるい」と言いたくなるほどの美形。
昭和感満載の木造ニ階建てのこの店には、まったく似つかわしくない麗しさだ。
服装は仕立ての良いブラックスーツに水色のシャツ、品のいいブラウンの細かい柄のネクタイ。
彼の店のスタッフの制服は男女問わず、ブラックスーツだ。
施術するときは、上着を脱いで、ベストにネクタイ姿となる。
それがワンランク上の高級感を醸し出し、顧客に好評なのだそうだ。
それに引きかえ、こちらはといえば……
紺のパーカーにボーダーのカットソーとジーンズ。
髪は伸ばしっぱなしのロングで、ゴムで耳の後ろ辺りで結んでいるだけ。
かろうじてファンデーションがわりに下地クリームを塗っただけの、ほぼノーメイクの顔にピンク系メタルフレームの眼鏡。
ぱっと見は中学生。
25歳の妙齢の女としては、お恥ずかしい限りの無頓着さだ。
極めつきは出版社のキャンペーンで配られた、パンダのイラストつきエプロン。
びしっと決めているセレブな玲伊さんの隣に立てば、お手伝いさんにしか見えない。