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🐸『カエルが運ぶ恋』
第1話「心で話すカエル」
爬虫類の、あのつるりとした肌の光沢。無口で、じっとこちらを見つめる丸い目。
村上りなは、そんな彼らの静けさに惹かれていた。
平日の夜。今日も彼女は、会社帰りに爬虫類専門店『リル・リザード』のドアを押していた。
「おかえり」
低くて優しい声。店主の宮嶋さんが、小さく微笑んだ。無骨で無口だけど、動物たちには優しい人だ。
「ただいま……って言いたくなりますね、ここ来ると」
「みんな、君の顔覚えてるよ」
照明に照らされたガラスケースの中で、フトアゴヒゲトカゲがまぶたを閉じる。
ヤモリの影が壁に映る。どの子も、静かに呼吸しながら、まるで時間の流れから自由になっていた。
そんな空間の奥――小さな水槽の中に、りなの視線が止まった。
そこには、掌ほどの緑のカエルが、じっと木の枝にしがみついていた。
つぶらな目。つるんとした体。どこか、人のような雰囲気を持っていた。
「この子……初めて見ました」
「今日入ったばかりさ。でもな、ちょっと変わった子でね」
宮嶋さんが水槽の上から覗き込み、少し困ったように笑った。
「変わった?」
「店の子が言うんだ。“あのカエル、こっちの心を覗いてくる”って。声も聞こえたとか言って、ビビって辞めちゃってさ」
冗談にしては妙にリアルな語り口だった。
「……変わってるの、好きです」
りなは自然とそう口にしていた。
見つめるカエルの目が、ふっと揺れた気がした。
その日の夜。りなは、カエルをお迎えしていた。
部屋の一角、水槽の中には自然を模したレイアウトを施し、霧吹きを終えたばかり。
湿度を好むその子のために、ライトもヒーターもぬかりない。
名前は、「キュー」。
どこか語尾のようで、問いかけのようでもある名前が、しっくりきた。
「キュー……今日からよろしくね」
その時だった。
まるで風がすっと部屋に吹いたような、妙な気配がした。
そして次の瞬間――
「……名前、勝手につけたな」
「えっ?」
誰かの声が、はっきりと脳内に響いた。
辺りを見回す。もちろん誰もいない。テレビもついていない。
だけど、水槽の中のキューだけが、じっとこちらを見ていた。
「驚くなよ。声出してねぇから。お前の中に、響かせてるだけだ」
「うそ……夢?」
「夢じゃない。幻でもない。俺は、お前と話してる。それだけだ」
心の声。いや、もっと奥――“感覚”のようなものだった。
押しつけがましくもなく、すっと体に馴染んでくるような、不思議な声。
「……本当に、あなたが?」
「まあな。カエルってのは、無口に見えて実はうるさい生き物なんだぜ」
「しゃべるカエルなんて、聞いたことないよ……」
「それはお前が、心で聞こうとしなかったからさ」
不思議と、怖くはなかった。
どころか、肩の力が抜けて、ぽろりと涙が出そうになった。
心にずっと張っていた糸が、ふっと切れたような感覚だった。
「……今日、つらいことがあってさ。営業で資料作ったのに、使ってもらえなかった」
「わかる。期待されないって、地味に痛ぇんだよな」
りなは思わず吹き出した。
「なんでそんな、わかるの?」
「俺はカエルだが、見てりゃわかることもある。ついでに言えば――」
キューがちょっと得意げな声色になった。
「俺は、恋も得意なんだ。案外な」
「……は?」
「お前、今まで恋、まともにしてきてねぇだろ?」
図星だった。
「そろそろだぜ、そういう季節。俺が手伝ってやるよ。運ぶのは、虫じゃなくて恋な」
「カエルが恋を運ぶの?」
「笑うか? でもな、すぐにわかる」
その目は、りなを試すようでもあり、優しく包むようでもあった。
「……じゃあ、お願いしてみようかな、キュー」
返事はなかった。ただ、部屋の片隅でカエルが、ふうっと小さく鳴いたような気がした。