テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
🐸『カエルが運ぶ恋』
第二話「始まるぞ 恋が」
「……で、結局“あの声”は本当に聞こえてたの?」
翌朝、通勤電車の中。
揺れる車内で、りなはバッグの中のキューに小声で話しかけていた。周囲の目が気になって、口はあまり動かせない。
「聞こえてたも何も。お前がちゃんと感じたんだろ。現実さ」
キューの声は心の中に滑り込んでくる。まるで内側から風が吹くような、落ち着く感触だった。
「昨日、夢かと思ってた。けど、起きたら水槽の中でこっち見てて……」
「見てたよ。カエルの観察力、なめんな」
思わず吹き出しそうになって、りなは口元を手で押さえた。
――この世界に、こんな不思議な存在が本当にいるなんて。
でも、自分の心がそれを受け入れられていることに、驚いている。
会社に着き、いつも通り仕事が始まる。
りなの勤務先は「ハヤブサスポーツ」。野球を中心とした総合スポーツメーカーで、彼女は法人営業チームの一員だった。
「村上さん、急ぎの案件入ったよ」
昼前、チームリーダーの牧野がファイルを持ってきた。差し出された資料の表紙に、見覚えのある名前があった。
「ハヤブサ・スパークス 小郷健斗選手」
「本人から指名で。広告媒体と新素材スパイクの共同企画だって」
「えっ……わたしが担当なんですか?」
「彼、最近成績落ちてるだろ。CM絡みも慎重になってる。だから、安心できる人がいいって」
「そ、そんな安心感あるタイプじゃ……」
「お前、虫好きとか言ってて営業成績ちゃんとあるから。信用ってやつよ」
思わずキューの声が脳内で返ってきた。
「へえ、小郷健斗……運命だな」
「運命って……まだ会ってもないのに」
「“会ってない”んじゃない。まだ“目が合ってない”だけ」
りなは苦笑した。そんな詩的なことをカエルに言われるとは思わなかった。
翌週、球団の屋内練習場。
ハヤブサスポーツの担当者として、りなは広報と共に打ち合わせに訪れていた。
緊張で手汗が止まらない。
選手との面会なんて、入社以来初めてだった。
「お待たせしました、小郷が来ます」
スタッフの言葉に、思わず息をのむ。
遠くから歩いてくる男性。背が高く、黒いジャージが自然と似合う。
近づくほどに、写真で見るより落ち着いた顔立ちと、少し疲れた目が印象的だった。
「小郷健斗です。今日はありがとうございます」
低く、柔らかい声だった。
思わず言葉が詰まりそうになる。だが、健斗はりなを見て、ほんの少し目を細めた。
「……村上さん? なんか、動物好きな人って雰囲気しますね」
「えっ……そ、そうなんです。爬虫類が好きで……!」
つい、口が滑る。場違いな話題だと気づいて顔を赤らめた。
だが健斗は、不意に微笑んだ。
「うちの柴犬も、人の気持ちわかるタイプなんですよ。たまに、こっちが読まれてる気がして」
「……え?」
「いや、変な話ですけど、落ち込んでるとき、何も言わなくても寄ってきてくれるんです」
その言葉に、りなはキューの存在を思い出す。
この人も、心で話せる存在と生きているのかもしれない――そう、ふと思った。
「犬の名前、なんて言うんですか?」
「ハチです。日本犬らしくていいでしょ」
「……うん、すごくいい名前」
ほんの数分の会話。でも、りなははっきりと感じた。
目の奥に、同じ“静けさ”がある人だと。
心を守るために、言葉を丁寧に選ぶ人なのだと。
そしてその夜。帰宅したりなに、キューがぽつりとつぶやいた。
「いい目してたな、あの男。過去に何かあったな」
「……わかるの?」
「カエルの勘は当たるんだよ。だから言っただろ。始まるぞ、“恋”が」
キューが静かに水槽の岩の上に跳ね上がり、じっと窓の外を見つめた。
その視線の先にあるものは――たぶん、まだ誰にも見えていない。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!