テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
関連病院合同研究会の一般セッションには、通常どおり出席した。
若手医師の発表を聞き、担当症例について質問へ答える。家庭の問題があっても、医学研究の場を復讐の舞台にはしない。
遼介は離れた席から何度も私を見た。予定どおり参加したことで、最後には久世家へ従うと思ったのかもしれない。
研究会が終了し、一般参加者が退室したあと、会場を別室へ移した。
残ったのは、義父、遼介、義母、医療法人の理事、主要金融機関の担当者、顧問税理士。そして、私と橘。
「これは家族会議ではありません」
橘の確認から会議が始まった。
「高瀬千紘、戸籍名・久世千紘氏の理事就任と、同氏を前提とした事業計画について、正式な意思を確認する場です」
「まだ離婚していない。久世千紘だ」
義父が不機嫌に言った。
「呼称ではなく、本人の意思が重要です」
会議が始まると、義父は再建計画を映した。
新しい産婦人科・周産期部門。
遼介を次期院長、私を産婦人科部門統括理事とする体制。
私の氏名と経歴が、既に大きく記載されている。
「次世代を担う医師夫婦として、二人には再建を牽引してもらいます」
説明が終わるのを待ち、私は用意した書面を配った。
「訂正があります。私は理事へ就任しません。産婦人科部門の開設にも参加しません」
「千紘さん、何を言っている!」
「また、本日付で夫・久世遼介へ離婚協議の正式通知を行います」
「家庭内の問題をここへ持ち込むな!」
「私を後継者の妻として紹介し、氏名と経歴を融資計画へ使った時点で、家庭内だけの問題ではありません」
私は資料の表紙を指すと、金融機関の担当者が資料をめくる。
「当行は、ご夫妻の就任合意があると説明を受けています」
「私は一度も同意していません。具体的な計画を知らされたのも、不倫発覚後です」
橘が、署名のない就任同意書と、私が持ち帰ると伝えた記録を示した。
「本人の承諾がないまま、就任予定者として融資資料へ記載された経緯の確認を求めます」
「夫婦で相談済みだと言ったな」
「千紘が感情的になっているだけです。冷静になれば、病院へ入ることが本人のためでもあると分かる」
「その説明が事実と異なることを示します」
私は橘へ視線を向けた。彼が頷き、必要部分だけを再生する。
『君がいなくなったら、親父の病院は立ち行かない』
『真帆の子は認知する。莉央の件はもう終わった。君は妻のまま病院へ入ればいい』
『病院には君の資格と大学との繋がりが必要なんだ』
不貞相手の医療情報も、中絶の詳細も流さない。
必要なのは、遼介自身が複数の不貞を認め、婚姻継続と私の就任を病院維持の条件として語った事実だけだった。
「悪意のある切り取りだ」
「原本は代理人が保管しています。必要なら全体を確認できます」
「夫婦の私的な会話を、こんな場所で流すな」
「私が自由意思で就任へ同意しているという説明を訂正するためです」
金融機関の担当者が義父へ尋ねた。
「産婦人科責任者の確保は、融資計画の前提です。代替候補はいますか」
「これから探せばいい」
「計画書では、高瀬先生の経歴と大学病院との連携を強く評価しています。同等の体制を直ちに組めるという説明は受けていません」
義母が横から口を挟む。
「千紘さんが少し我慢すれば済む話でしょう。妻なら、夫と家を支えるものよ」
「私の仕事と信用を使う計画へ、我慢という言葉で同意させないでください」
「久世家を捨てれば、あなたはただの勤務医よ」
「それで構いません」
義母の方が言葉を失った。
『ただの勤務医』と言われても、もう怖くなかった。
久世家の妻でも、次期院長夫人でもない。ただの私で生きていける。
肩書きを褒美にされても、従う理由にはならなかった。
義父が机を叩く。
「母子家庭の娘を久世家へ迎えてやった恩を忘れたのか!」
「私は、久世家の名前で医師になったのではありません」
会議室の視線が集まるのがわかるけど、声は震えなかった。
「父を亡くしたあと、母が働き、私が学び、自分で免許を取りました。見下していた母子家庭の娘の信用がなければ成立しない計画を、私の責任にはしないでください」
「財務上の不透明な支出についても、外部監査の結果を待つ必要があります」
顧問税理士が資料を閉じる。
義母の顔が強張る。腫れの残る頬へ、無意識に指を当てた。
「美容医療は院長夫人として必要だったのよ。人前へ出るたび写真を撮られるの。皺もたるみも、病院が衰えた印象に繋がるでしょう」
「同じ部位を何度も修正し、高級化粧品やキャンセル料まで病院へ請求する必要がありましたか」
「一度では綺麗にならないこともあるのよ。目元を直せば頬の下がりが目立つし、頬を上げれば口元が気になる。途中で止めたら、前よりおかしくなるの」
金融機関の担当者ではなく、義父へ詰め寄った。
「監査が終わるまで、来週の予約も止めるつもり? もう予約金を払ってあるのよ」
病院の融資が止まるかもしれない場で、義母が最初に気にしたのは次の施術だった。
呆れるより先に、怖くなった。
本人にとっては、病院の存続よりも、鏡に映る顎の線の方が差し迫った問題になっている。
「今の状態で、まだどこを直すんですか」
「顎の線よ。写真だと左右が違うの。千紘さんには分からないでしょうけど、一度気づいたら、その顔のまま人前には出られないのよ」
説明する声だけが、急に切実になる。
院長夫人だから仕方なく受けている、という話ではなかった。
もう義母自身が止められない。
院長夫人という立場は、美容整形を続けるための理由へ変わっていた。
「適切な経費だったかは、監査が判断します」
金融機関の担当者が結論を告げた。
「就任合意に相違がある以上、現行の融資計画は一旦停止します。代替体制と監査結果を踏まえ、白紙から再審査します」
「待ってください」
義父の声が掠れた。
私は橘とともに席を立つ。
遼介が腕を伸ばしかけたが、橘が間へ入った。
「こんなやり方で、俺を潰したいのか」
「あなたを潰すためではない。私の名前を、あなたたちの計画から外すためよ」
「同じことだ!」
「私が外れただけで崩れるなら、最初から私の人生へ依存しすぎていたの」
扉を閉める直前、融資計画を白紙へ戻すという言葉が、もう一度聞こえた。
私が久世家を壊したのではない。
私が黙って支え続けることを前提にしていたから、離れただけで崩れたのだ。
扉の外へ出た瞬間、胸の奥にあった重いものが少しだけ軽くなった。私はやっと、自分の足であの家から離れた。
コメント
1件
うわ…読み終わったあと、しばらく息できなかったわ。 会議室であそこまで自分の言葉で戦う千紘、本当にかっこよかった。 義母の美容医療の話、本人は必死なのに病院どころじゃなくなってて怖かった…。 久世家の“計画”が全部、千紘の人生に依存してたって証明された瞬間だったね。「私が外れただけで崩れるなら依存しすぎ」ってセリフ、めちゃくちゃ刺さった。
白波 灯
219
鬼霧宗作
303