テラーノベル
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「ここが今日から君の部屋だよ。気に入ってくれるといいんだけど」
レオ様は、最後の一人が退室し重厚な扉が閉まったのを見届けると
くるりと軽やかな足取りで振り返った。
逆光を背負いながら浮かべたその笑みは、どこまでも人懐っこく、屈託がない。
案内されたのは、私の実家の居間が丸ごと入ってしまいそうなほど広い寝室だった。
見上げるような天蓋付きのベッドには、最高級のシルクであろうシーツが隙なく整えられ
壁際に鎮座するクローゼットには、王国の至宝とも呼べる名工の手による精緻な彫刻が施されている。
没落の足音が間近に迫っていたハルデンベルク家では、もはや夢に見ることさえ贅沢となった
あまりに眩い光景だった。
「……ありがとうございます、レオ様。私には十分すぎるほどです」
精一杯の礼儀を込めて頭を下げると、頭上から小さく、弾むような笑い声が降ってきた。
「固いなあ、ローラ。二人きりのときまで四角四面な緊張を解かないでいたら、さすがに君の体が持たないよ?」
彼は距離を詰めると、親しげな動作で私の肩をぽんと軽く叩いた。
その仕草は、まるで幼馴染か気の置けない友人に対するもののようで、あまりに気さくだった。
先日の夜会で、大勢の貴族たちの前で見せた
私のすべてを独占するかのように熱を帯びた、あの「愛する女を見つめる瞳」は、どこにもない。
今の彼は、完璧な『おしどり夫婦』という舞台を降りた、ひとりの青年に戻っているのだ。
「……はい。契約書にもありました通り、公務や夜会以外では節度を持って接し、レオ様の負担にならないよう努めます」
「うん、助かるよ。君が物分かりのいい子でよかった。でも、僕も外では常に『完璧な恋人』を演じ切らなきゃいけないからね。せめてオフの時くらいは、こうしてリラックスしてほしいんだ」
レオ様はそう言うと、喉元を締め付けていた窮屈そうなタイを指先で無造作に緩めた。
ボタンを一つ、二つと外し、ふう、と深く息を吐きながら近くのベルベットのソファに身を投げ出す。
少し乱れた茶色の髪、背もたれに頭を預けた隙のある座り方。
社交界の令嬢たちがその微笑み一つ、言葉一つを喉から手が出るほど欲しがっている
「陽だまりの皇子」の独占権を、私は今、ビジネスという極めて現実的な形で手にしているのだ。
(……これは演技。これはビジネス。私に求められているのは、彼の野望のための隠れ蓑になることだけ)
自分自身に言い聞かせるように、私は何度も、呪文のように心の内で繰り返した。
彼は私を愛しているわけじゃない。
ただ、冷徹な計算の結果
私が最も「都合がいい駒」だったから、隣に置いているだけ。
「ああ、そうだ。明日の朝食は一緒に摂ろう。使用人たちの手前、仲睦まじいところを見せておきたいからね。……いいかな?」
ふいに顔を上げた彼と、視線がぶつかった。
そこには、計算高く冷めた裏の顔も、過剰に甘い表の顔もない
ただ飾らない少年のような無防備な笑顔が浮かんでいた。
西日に照らされ、琥珀色の瞳が柔らかく透き通っている。
作り物の完璧な微笑みではない、どこか幼さの残る、純粋な好奇心を含んだような表情。
「……っ、はい。喜んで、お供いたします」
声が裏返りそうになるのを必死で抑え、視線を逸らすのが精一杯だった。
胸の奥では、まるで壊れた教会の鐘が乱打されているかのような
激しく、痛いほどの鼓動が響き渡っている。
(だめよ、ローラ。勘違いしちゃいけない。この人は、生まれながらの支配者なのよ)
彼はプロの役者なのだ。
この無防備な姿さえ、私を油断させ、扱いやすくするための周到な計算の一部かもしれない。
頭では、氷を飲み込むような冷静さでそう分かっているのに。
夕陽が朱色に染め上げる静かな部屋で、少し低い、けれど心地よい声で名前を呼ばれるたびに。
私の心臓は、契約書に誓ったはずの「嘘」を、いとも簡単に裏切ってしまいそうになっていた。
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