テラーノベル
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「さあ、行こうか。今日は僕の領地にある市場の視察だけど……建前は『愛する婚約者との初めての休日デート』だからね。一瞬たりとも、その役を忘れないで、ローラ」
重厚な馬車の扉が開く直前、レオ様は私にだけ聞こえる低い、氷のような温度の冷徹な声で囁いた。
その琥珀色の瞳には、優しさなど微塵もなく
獲物を冷酷に追い詰める野心家としての鋭い光が宿っている。
けれど、一歩外へ踏み出し、民衆の視線に晒された瞬間。
彼は瞬く間に、国中から愛される完璧な「陽だまりの皇子」へと変貌を遂げた。
「……おっと、危ない。足元に気をつけて、ローラ」
馬車から降りる際、エスコートのために差し出された手を取っただけでは済まなかった。
彼は当然のように私の腰を抱き寄せ、逃がさないと言わんばかりの力強さで引き寄せたのだ。
あろうことか、熱狂する大勢の民衆が見守る真ん中で、彼は私の耳元にそっと唇を寄せ
吐息が触れるほどの至近距離で甘く囁いた。
「…っ、レオ様! 近すぎます……いくらなんでも……!」
「いいや、足りないくらいだよ。見せつけなきゃいけないんだ。僕が君という宝石にどれほど深く溺れ、狂わされているかをね」
人懐っこい、誰もが安心するような笑顔のまま
彼は私の指先に何度も、まるで祈るように愛おしげなキスを落とす。
市場を歩く間も、私の肩を抱き寄せたその大きな手は、一刻たりとも離れることはなかった。
熟した美味しそうな果実を見つければ「あーん」と自らの手で私の口元まで運び
私が気恥ずかしさに震えながら口にするのを満足げに眺める。
また、露店に並んだ珍しい細工の髪飾りを見つければ「君の美しい金髪にぴったりだ。僕が着けてあげてもいいかな?」と言って、その場で私の髪に指を差し込み、愛しそうに飾りを留めてくれるのだ。
(……理性が!私の理性が持たない……!)
周囲からは「なんてお熱い」「あの冷徹な噂もあったレオ様が、あんなに骨抜きにされるなんて」と黄色い歓声と感嘆の声が上がる。
けれど、その熱狂の渦中で
ふと至近距離で見つめ合う彼の瞳は
時折ぞっとするほど冷ややかに周囲の反応を観察し、計算している。
これはすべて、彼の皇位継承を盤石にし、敵を欺くための徹底した「演出」なのだ。
分かっている。痛いほど分かっているのに。
彼の手の熱さや、不意に鼻先をかすめる清潔なシトラスの香りに
私の心臓は爆発しそうなほど跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れそうになっていた。
◆◇◆◇
屋敷に帰り───
ようやく仮面を脱げると思ったのも束の間。
事態は私の予想を遥かに超える速度で加速していた。
翌朝、私が廊下を通りかかると
角の向こうからメイドたちの楽しげな、隠しきれない興奮を帯びた話し声が聞こえてきた。
「ねえ、聞いた? 昨日の市場でのレオ様のご様子。ローラ様から片時も目を離さず、まるでお姫様のように扱っていらしたんですって!」
「まあ! 屋敷の中でも、あんなに熱心にエスコートされているもの。あのお二人は、契約なんかじゃない、間違いなく本物の、深い愛で結ばれているわね」
(……本物の、愛…?)
胸の奥がチクリと、毒を塗った針で刺されたように痛む。
それは、このビジネス関係において
決して口にしてはいけない、そして抱いてはいけない禁断の言葉だ。
慌ててその場を立ち去ろうと踵を返したとき
背後からひょいと、温かい腕が回された。
「……ふふっ、ローラ。僕たちは、使用人たちの目から見ても、疑いようのない『相思相愛』らしいね」
心臓が跳ね上がり、一瞬止まるかと思った。
振り返るまでもなく、背中に触れる体温で誰か分かる。
そこには、いつの間にか現れたレオ様がいた。
執事やメイドたちが遠目に見守り、期待に満ちた視線を送る中
彼は私の逃げ道を完全に塞ぐようにして壁に手をついた。
いわゆる「壁ドン」という、心音まで重なりそうなほど至近距離の姿勢。
「レオ様……これは演技のはずです。使用人たちの噂に乗る必要なんてないでしょう…?」
「いいや、大いにあるよ。噂というものは、時に真実よりも鮮やかに世界を塗り替えるんだ。……ねえ、ローラ。もっと、深く踏み込んでもいいかな?」
彼は私の髪を一房、愛おしそうに指に巻きつけ、鼻先が触れ合うほどの距離まで顔を近づけた。
唇の端を上げた、いつもの人懐っこい微笑み。
けれど、その琥珀色の奥に潜む「本気」とも取れる、射すような熱い光に、私は息を呑む。
「……例えば、このまま君を僕の部屋に連れ去って、夜通し語り合うような……そんな『仲睦まじい』噂を新たに流してみるのはどうだい?」
冗談めかした、いつもの軽い口調。
なのに、私の髪に触れる彼の指先は、わずかに、けれど確かに震えているように見えた。
ビジネスという名の強固な仮面が、互いの体温で溶け、今にも壊れてしまいそうな危うい沈黙。
私は、彼から目を逸らすことさえできず、ただその琥珀色の海に溺れるしかなかった。
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