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次の日、斎藤さんに指定された時間よりも、早めにコンビニに到着。店内をぶらついていたら、軽く肩を叩かれた。
「奥様、おはようございます」
振り返ると息を切らした斎藤さんが、どこか済まなそうに小さく頭を下げる。これから揃って会社に赴くために、暗くなっているその雰囲気を打破すべく、あえてニッコリ笑って挨拶する。
「おはようございます。今日はよろしくお願いしますね」
持っていたカバンの持ち手を握りしめながら、斎藤さんにほほ笑むと、目の前にある顔が、少しだけ困った様相に変化した。
「よろしくなんて、そんな。私のほうが、よろしくお願いいたします……。ちなみに部長は、いつもどおり出勤してるみたいです。社内は朝礼中で、中に入るなら今がチャンスです。さぁ行きましょう!」
自身の不倫を暴露しに行くというのに、このタイミングで妙に気合の入った斎藤さんに伴われて、輝明さんが勤める会社に足を踏み入れた。
そのままエレベーターホールに向い、あらかじめ指定されたところに行くために、上層階を目指す。
「人事に上司との不倫関係についてお話しますと言ったら、社長が同席するかもと言われました」
エレベーターに乗り込み、扉を閉めてあがりかけた瞬間、斎藤さんは静かに口を開いた。
「そう、社長がわざわざ顔を出すのね」
幹部ではないが、それなりの地位にいる社員の不貞行為に、社長が出ざるを得ないのだろう。
「奥様は部長の不倫に、気づいていらっしゃらなかったんですよね?」
「ええ。寝耳に水といった感じね」
「人事の責任者には、洗いざらいお話ししますので、なにか質問があれば、遠慮なく聞いてください」
斎藤さんが喋り終える前に、エレベーターの扉が左右に開いた。扉の開くボタンを押しっぱなしにした彼女が左手を前に出し、出ることを促す。それに従ってエレベーターの外に出て、辺りを見渡した。
「奥様、こちらの第3会議室で、話し合いをすることになってます」
立ち止まる私を追い越した斎藤さんが、すぐ傍にある扉を開くと、中から若い男性が顔を出した。
「津久野部長の奥様と斎藤さんですね。社長が見えられたら、話し合いをはじめますので、かけてお待ちください」
言いながら大きく扉を開け放ち、机に沿って並べられているパイプ椅子に導かれた。私が先に会議室に入り、右側の椅子に座ると、斎藤さんは隣に腰かける。
私たちとは入れ替わりで、そのまま男性社員が出て行く。目の前に用意された机には分厚いファイルが置かれていて、なにかを調べている最中なのがわかった。
「奥様、今喋った男性が、人事の小日向本部長です。同期の話では、とても優秀な方だと聞いてます」
「小日向本部長ね、覚えておきます」
輝明さんよりも明らかに若い男性社員の役職に、驚きを隠せなかった。いったい今まで、どんな仕事をこなしてきたのだろう。
(社員の不貞行為ばかりじゃないとはいえ、人事の仕事って不明なところが多いのよね)
待つこと3分ほどで、小日向本部長と社長が私たちの前に現れた。小日向本部長は持ってきたトレーから紙コップに入れられたお茶を、それぞれの前に置いていく。
「津久野さん、はじめまして。社長の犬井と申します。このたびはわざわざお越しくださり、なんと言っていいのか」
社長の弱りきった表情は、昨日見た輝明さんのお義父さんの顔と同じだった。実家に帰宅した私を追いかけるように、輝明さんのご両親が現れ、玄関先で深く頭を下げた。
「このたびはウチの息子が明美ちゃんに、大変失礼なことをしました。本当に申し訳ない!」
「お義父さん、玄関先ではなんですから、中に入りませんか? 詳しい事情をお話させてください」
何度も頭を下げるふたりに、実家に入るように優しく声をかけた。私の両親が先に移動し、それにお義父さんが続き、おろおろするお義母さんの背中を押して、なんとかリビングに入っていただき、ソファにかけてもらう。
私と両親はその目の前のソファに腰かけ、テーブル越しに対峙したら、なんともいえない嫌な空気が、そこはかとなくリビングに漂った。
私の両親にも見せていなかった、岡本さんからいただいた書類と写真をテーブルの上に置いて、輝明さんのご両親に視線を注ぐ。
「私は輝明さんが不倫しているなんて、昨日知らされるまで、まったくわかりませんでした。それくらい私の前で、彼はとてもいい夫でいたんです」
「明美、この書類はなんだ?」
私の横に座っているお父さんが、眉根を寄せながら指を差す。出している写真は愛娘が愛した夫の不倫中のものだから、手に取りたくないのは、私でもわかった。
「輝明さんの不倫相手の友人が、探偵事務所に依頼して調査した書類です。不倫相手になっている友人を心配した親友が、昨日不倫相手の友人を連れて、直接私と話をしたんです」
父にわかりやすいように説明した瞬間、お義母さんが立ち上がり、ふたたび頭を下げた。
「明美ちゃん、本当にごめんなさいね。あの子を甘やかして育てた、私が悪かったんだと思うわ」
それに合わせるようにお義父さんも腰をあげ、お義母さんの肩を抱き寄せて、苦しげに告げる。
「おまえだけの責任じゃない。俺だって仕事にかまけて、輝明の教育を任せきりにしたじゃないか」
「いい加減にしてくださいっ!」
父がいきなり大きな声を出した。そのことに私と母は驚き、体をビクつかせる。
「津久野さん、今さら育て方がどうのと言っても、貴方の息子さんはもういい大人でしょう? 過去のことをとやかく言っても、無駄なんですって」
吐き捨てる感じで言い放った父は、無造作にテーブルの上に置かれた書類を手に取り、ため息まじりに読み出した。
「なんだこれは……」
そうひとことだけ呟き、まだ一枚しか読んでいないのに、父は輝明さんのお義父さんに、バサリと音をたてて書類を突きつけた。
「アンタの息子がやらかしたことが書かれてる。読んでくれ」
「わかりました、拝見します……」
お義父さんは、書類を掲げるように両手で受け取り、不安げな面持ちで読みはじめた。一枚読み終えたら、隣にいるお義母さんに手渡すという流れ作業を、私は複雑な心境を抱えた状態で、黙ったまま見つめる。
そんな私の利き手を、まだ詳しい内容をなにも知らない母は掴んで、ぎゅっと握りしめてくれた。触れたところから、あたたかい温もりが伝わり、冷たく強ばった心が解れていく。
(まるで勇気をわけてくれるそれに、涙が出そうになったっけ)
そして今日、輝明さんの勤める会社に斎藤さんと赴き、会社側のお偉い方にこれまでの経緯を彼女が説明するのはいいとして、例の書類をどのタイミングで披露したら、効果的なんだろうか――。
実家でのつらい出来事や、これからのことを考えている間に、小日向本部長と斎藤さんのやり取りは続いていた。
「斎藤さん、上司の津久野部長は妻帯者だとわかっていたのに、どうして不倫に興じたのでしょうか?」
「小日向く~ん、そこはもう少しだけ柔らかいニュアンスで訊ねたらいいんじゃない? たとえば、なにがキッカケで、津久野くんに惹かれたのかな、という感じでさ。斎藤さんも、そのほうが答えやすいよね?」
「部長に惹かれたキッカケ……。確かに、社長の仰った質問のほうが答えやすいです」
少しだけ体を小さくして、パイプ椅子に座る斎藤さんと、明らかに不機嫌な様子の小日向本部長。そして彼の肩を叩いて宥める社長という、不思議なトライアングルを漫然と眺めた。
「津久野さん、すみません。いつも対人関係を対処している社員が、私用で休んでおりまして、今回は経理の不正関連の仕事をキッチリこなしている小日向くんに、貴重な経験値を積ませてあげたいと思い、私が彼を指名したんです」
「そうだったんですね」
「このクソ忙しいときに、あの人が新婚旅行に行くから、俺がこんな目に遭ってるんだろ」
ボソッと横を向いて文句を言った小日向本部長を華麗にスルーした社長は、穏やかな表情で斎藤さんに向き合う。
「ということで斎藤さん、私の質問に答えてくれる?」
社長の物腰柔らかい口調のおかげで、会議室の空気がほんのちょっとだけ和んだ気がした。小日向本部長の機嫌が悪くなければ、もう少しだけ良くなりそう。
目の前から隣に視線を移すと、斎藤さんは私を見つめていた。
「私、今まで交際してきた男性は、ほぼ年下ばかりだったんです。だから部長のような、年上の男性に頼りにされたのは、なんというか新鮮だったのを覚えてます」
そのセリフで、輝明さんが斎藤さんを落とすための作戦をたてていたことを知った。