「そうだったのね……」
小日向本部長はなにも言わず、斎藤さんが告げた内容をメモしているようだった。
「小日向く~ん、そうやってメモを取るのはいいけど、なにか思うことはないのかい?」
「思うこと、ですか? 別にこれといって、なにも感じませんが」
「君、恋人いないだろ」
「おりません。仕事が恋人ですから」
キッパリ言い切った小日向本部長の隣で、社長は薄いてっぺんを隠すように頭を抱えた。
「ああ、仕事が恋人っ! 書類上の数字ばかりを追って、不正を見つけ出し、誰がやったのかを暴くことに、小日向くんが楽しみを覚えてしまった弊害がここに出てる。津久野さんは、思うことがあったでしょう?」
「夫のことですからね。なんとなくわかります」
苦笑いを浮かべて、快活に返事をした。
(輝明さんの会社で、金銭的な不正ばかりおこなわれているから、小日向さんはあの若さで本部長になったいうこと? ここの会社って、本当に大丈夫なのかしら……)
「津久野さん申し訳ないが、恋愛下手の小日向くんにわかるように、説明してもらえませんか?」
ここにきて、3人だけでやり取りしていたのに、まったく関係ない内容で私が口を出すことになろうとは、夢にも思わなかった。
「そうですね、夫はあえて弱い自分を見せることによって、斎藤さんがどういった態度で接するのかを見て、落とせるかどうかを判断したんじゃないかしら」
「私が親切に対応せずに、塩態度を貫いていたら、部長は手を出してこなかったということなんですか?」
「うーん。夫が斎藤さんだけに目をつけていたのなら、素っ気ない態度だったとしても、手を変えて接触するでしょうね。それこそ、そこに恋愛の駆け引きを楽しむように」
夫の性格を完璧に把握しているわけではないけれど、これまでの付き合いと、今回調べてもらった調査書に記載されている内容から、うまく意見にまとめてみた。
「それそれ、恋愛の駆け引き! 小日向くん、わかったかい?」
「さっぱりわかりません。落としたい女性の気を惹くために、弱い自分を見せて隙を窺うなんて、やってることがセクハラの類にしか思えませんけどね」
眉根を寄せながら肩を竦める小日向本部長に対し、斎藤さんは顔色を輝かせて口を開く。
「私はわかります。ウチの商品を買ってくれそうなお客様のリアクションで、接客方法を変えて、購買意欲を煽るみたいな感じでしょうか」
「買ってくれたら、ウチの商品の良さもわかって、一石二鳥だしね。って小日向く~ん、理解不能みたいな顔をしない。こうやって、柔軟に物事を考えよう」
「俺は不正の証拠を対象者に突きつけて、白か黒かを判断するだけなんで、相手の態度でどうのと言われても、正直なところサッパリです」
「と、とにかく夫は落とせそうな斎藤さんに、最初から目をつけていたってことで、不倫相手に選んだのではないでしょうか」
目の前で、すれ違いにすれ違いを重ねていくのを見ていられなくて、思わず発言してしまった。途端に静まり返る会議室の様子に慌てふためくと、社長は優しくほほ笑み、人差し指を立てて流暢に語り出した。
「そうだねぇ。津久野部長は支店からやって来たこともあって、部署に知り合いはいない。だからこそ新入社員から長く本店に勤めてる斎藤さんに目をつけて、彼女を足がかりにし、周りとコミュニケーションをとっていけば、仕事もうまくまわすことができただろう」
当時の状況を社長が説明したことで、斎藤さんは複雑な表情を見せる。
「俺が斎藤さんを……その、ごにょごにょ」
「小日向くん、どうしたんだい?」
俯いた小日向本部長が、ものすごく小さな声で呟き、それに反応した社長が問いかけた。
「斎藤さんがウチを受けたときに、俺は人事採用の末席にいて、面接を見ていたんです」
「ほぅ、それで?」
「めでたく斎藤さんが採用になって、どこに配属するかを検討した際に、先輩たちが地方の支店を推薦したのを、俺が本店の営業部に配属するように強く勧めました」
「えっ?」
斎藤さんが知らなかった採用の事実に、驚きの声をあげた。しかも先輩たちという複数の意見を引っくり返した、当時後輩の立場でいる小日向本部長の行動力がすごいと思う。
「頑固で融通の利かない小日向くんのことだから、きっと理路整然とした資料かなにかを、先輩たちの前に用意し、斎藤さんを本店に勤務させたんだろうねぇ」
社長は胸の前に腕を組み、納得したように何度も首を縦に振る。
「社長の今のセリフ、誉め言葉として受け取っておきます。でも俺があのとき、先輩たちの意見に賛同していたら、きっと斎藤さんは不倫をせずに済んだかもしれませんね」
「すみません……」
さらに体を縮こませて俯く斉藤さんに、社長は顔の前で手を振り、なんでもないとジェスチャーした。
「人は採用試験や適性検査で、測れないものがある。それとそこで過ごした環境も、大きく影響するかな。だから小日向くんのせいじゃないし、斎藤さんが謝る必要はないんだよ」
お通夜のような湿った雰囲気を打破したくて、鞄から例の書類をサッと取り出し、小日向本部長の前に置いた。そして、見たくない写真もそこに加える。
「津久野さん、これは?」
小日向本部長は、机の上に置いたものと私の顔を交互に見つめる。
「夫が不倫していた証拠です」
「拝見します。これは――!」
「その書類はコピーなので、そのままお使いください。写真も差し上げます」
書類をガン見している小日向本部長に、斎藤さんは複雑な面持ちのまま、まぶたを伏せて語った。
「私のことを心配した親友が、探偵事務所に依頼をして、部長のことを調べたんです。昨日奥様と話し合いをした際に、その書類をお渡ししました」
書類からチラッと視線をあげた小日向本部長と目が合ったのを機に、私も口を開く。
「その書類に、記載されていないことがあります。夫が結婚してすぐに、同期の花森さんという方の奥様と、不倫関係になっていたそうです。理由は、自分の仕事を横取りされたからということで」
小日向本部長は書類に目を配りつつ、素早くメモをとっていく。そこから一息ついたのちに、隣にいる社長に話しかけた。
「この資料をもとに、これから支店に行って事実確認し、取りまとめたものを社長室に届けます。ちょうど別件で支店に行かなければならない仕事もあったので、まさにグッドタイミングでした」
「どれくらいで、できるだろうか?」
「わかってるクセに、それを聞くんですね。明日ですよ。では失礼します」
小日向本部長は、分厚いファイルなどを抱えて、慌ただしく会議室から出て行った。
「やれやれ。ほかの仕事をこなしながら、今回のこともやるというのに、仕事が早いこと。見落としがなければいいが、完璧主義の彼なら大丈夫かな」
「社長、これを受け取ってください!」
斎藤さんはパイプ椅子から勢いよく立ち上がり、辞表と書かれた封筒を社長の目の前に置く。小日向本部長を見送っていた社長は、会議室の扉から視線を机の上に移して、ほほ笑みを消し去った。
「これは斉藤さんなりに、ケジメをつけるために提出したということなのかな?」
社長に訊ねられた斎藤さんは、居住まいを正して小さく頭を下げる。
「世間一般的に見て、上司と不倫に興じる社員は、いてはならない存在です。奥様がいることを知っていながら、部長としあわせになろうなんていうおこがましい考えも、本当に最低としか言えません」
私は椅子から腰をあげて、背筋を伸ばした斎藤さんの肩に、そっと手を置いた。
「私もね、もっと夫に関心を持って、日々コミュニケーションをとればよかったって思うの」
「奥様……」
「そうしていれば、彼が不貞行為に及んでいたことも、きちんと察知できたんじゃないかって。私に気づかれた時点でアウトだけれど、輝明さんのことを気にして、毎日話しかけていたら、それが彼のいただけない行為の抑止力になったかもしれないじゃない?」
「ふたりとも、ちょっといいかな?」
視線を合わせた私たちに、話しかけにくそうに社長が声をかけた。
「なんでしょうか?」
「君たちふたりは、夫に裏切られた妻と夫を奪った愛人という関係なのに、互いを思い合えることについて、不思議に思ったんだ」
すると斎藤さんが私の顔を見てから、苦笑いを浮かべて答える。
「それは、奥様がお優しい方だからです。愛人の私の体調を気遣ってくださったんですよ」
「悪いけど、私は優しくないわ」
力なく首を横に振って、キッチリ反論した。
(だって私は斎藤さんを使って、輝明さんに復讐する計画をたてている、ひどい女よ。自分の手を一切汚さない計画に乗っかってる時点で、優しさの欠片もない人間じゃないかな)
一旦、目を閉じて心を落ち着けてから、社長に話しかける。
「社長が小日向本部長の調査書を見れば、彼がどれだけ悪いことに手を染めていたのかが、嫌でもわかります。複数の社員との不貞行為や、日頃の勤務態度を含めて、厳しい処分をお願いします」
こうして私たちは、輝明さんに打撃を与える、第一ミッションを完了させた。第二ミッションをスムーズにおこなうべく、夕方仕事の終わった榊原さんの車に乗り込み、仕事が抜けられない岡本さん以外のメンバーで現地に赴き、現場にライトを照らして草刈りをしたり、目的地まで歩きやすいように、大きな石をどけて、準備に励んだのだった。
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