第八章「見つめる壁」

アパートの廊下は、夜になるとひっそりと息を潜める。

新しい住人の青年は、引っ越してから数日、壁の隙間に目を向けずにはいられなかった。

カサ……カサ……

耳に届くのは、微かに規則正しい呼吸のような音。指先が無意識に壁に触れると、ひんやりとした感覚が伝わる。

> 「……まだ、見てるよ」

囁きは悠真の声なのか、それとも前住人の声なのか、判別はつかない。

それでも、青年の心は次第に惹かれていった。恐怖を感じつつも、どこか安堵のような感覚が混ざる——まるで、自分がずっと待たれていたかのように。

夜勤明けの美咲が通りかかる。

廊下を歩く足音が微かに響き、青年が振り返ると、誰もいないはずの隣室の壁がわずかに揺れたように見えた。

美咲はそれを見ても声をかけず、ただ静かにその場を通り過ぎる。長年の経験で、触れてはいけないことを知っているのだ。

山本管理人は、廊下の隅で青年をじっと見つめている。

「ここに住む人間は、皆、必要とされる限り……この隙間の中に吸い込まれる」

管理人の声は静かで冷たく、隙間の囁きと重なって、不気味さを増幅させた。

青年は壁に耳を押し当てる。

暗い割れ目の奥から、過去の住人たちの声が重なり、静かに迫ってくる。

> 「来て……」

恐怖は最高潮に達するが、それと同時に、心の奥底では奇妙な安堵を覚える。

隙間は、孤独や願望を吸い込み、囁きに引き寄せる力を持っているのだ。

アパート全体が静まり返る中、隙間は今日も呼吸する。

悠真も、前住人も、そして今の青年も――すべてが“見られている”。

目に見えぬ視線が、今日も静かに、新しい住人を待ち続けていた。

> 「……まだ、見てるよ」

それは、終わりのない静かな恐怖。

アパートの壁の隙間は、今日も確かに生きている。