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三日とは夜ごとに折る指が、親指と人差し指と中指に及ぶまでだ。
それだけあれば、大丈夫。いまはきっと疲れて弱気になっているだけだから。
いつも通り働き、食べ、寝たら、きっと元に戻る。戻るはずだ。
そのときはわたしの不安なんて笑い話になっていて、またこれまでのように晴明さまから穢悪の調伏に連れて行ってもらったりして、亜鐘姉さまと仲直りなんて……。
※
「お世話になりました……」
旅立ちの日は生憎の曇り空。
わたしは櫃に詰め込んだ少ない荷物を背負って、壊れた鳥居の下から坤鬼舎を正面にしていた。
姉さまたちはみんなで……、普段は姿を見せない陸燈姉さまさえもわたしを見送りに、わざわざ表まで出てきてくれていた。
晴明さまは夕方辺りにお成りになるらしい。本当は明日のはずだけど、モリから一報を受けてわたしに会いに来てくださるそうだ。
「本当に晴明さまと会わなくていいのね?」
霞姉さまが念を押す。
「最後に一目会えるなら、とも思いましたけど……。でも絶対に泣いてしまうので」
「……晴明さまにはご寛恕を請うておくわ。あなたの気持ちは分かってくれる」
「……お許しください」
泣いて醜く別れるくらいなら、くちびるに残る感触を、あの方にとって最後のわたしにしたかった。ちっぽけな誇りだけど、最後に意地を見せたいのだ。
「じゃあ、夜火」
すっかり元に戻った亜鐘姉さまが、巾着を手渡してくれた。ずしっとした重みが手の平から伝わり、それなりの銭の量を感じさせた。
「少ないけど、路銀の足しにしてね。貯め込んだらいけないわよ。ほとんど都でしか使えないから、行きがけに市でなにかと交換して行って。この時期なら東の市が立っているはずだから」
「――ありがとう、ございます」
自分でも驚くほど弱々しい声で返事をすると、亜鐘姉さまが巾着を持つわたしの手を、丁寧に両手で包み込んだ。温かく、愛情を感じた。
「あのときは、意地悪を言ってごめんなさい。どうかしてたの」
「いいんです。こっちこそ、そういう機微に疎いから」
なるべく笑って答えて、亜鐘姉さまの目を見た。
わたしにお役御免の見込みが出ると、亜鐘姉さまは元の優しい彼女に戻った。
なにかと気にかけてくれ、精の出る食べものをと都に買い出しにも行ってくれた。その様子を見ながら、彼女を危うくさせていたのは誰なのかを思い知った。
そりゃ、わたしを隠岐に送るという結論になるのも納得だ。晴明さまを手にかけ、霞姉さまに嫌われ、亜鐘姉さまを危うくさせ、穢悪の調伏では失態を演じた。陸燈姉さまから与えられた三日は、いわば別れのための準備期間だったのだろう。
「銭、今度ばかりは、自分のために使うのよ」
横に並ぶ姉さまたちの中から、命恋姉さまが言った。大きな瞳に涙がいっぱいたまっていた。その涙で救われた気がした。
わたしは「はい」と返事をすると込み上げてくるものを堪え、
「最後まで、ありがとうございました。姉さまたちも、どうかご息災で」
腰を深く折って頭を下げた。陸燈姉さまの顔に表情はなかった。霞姉さまの顔にも。命恋姉さまと亜鐘姉さまは、悲しそうにしてくれていた。
わたしはこの場にいるのが居たたまれず、振り返ると速足で森の小路を抜けていった。モリが小屋の前で跪いて見送ってくれていた。話しかけたかったけど、まともな声を出す自信がなくて、手を振ってその場をあとにした。
それからは歩きながら、なるべく坤鬼舎のことを考えないようにした。だけど都までの道のりは、たくさんあった短い間の思い出を蘇らせ、辛かった。一人になるのが耐えられなかった。
ふと目を上げると、彼方からやってきた風が草々を柔らかに撫で、わたしの髪も揺らして通り過ぎた。青い香りが鼻に残り、その様になんとなく自分なりの『あはれ』を感じて、この気持ちを姉さまや晴明さまに伝えたいと思った。
しかしもう、わたしの周りには誰もいないのだ。
晴明さまも亜鐘姉さまも命恋姉さまも霞姉さまも陸燈姉さまもモリもスケも。せっかく手に入れたと思った居場所は砂のように、指の間からこぼれていった。わたしが居場所を得るには、この手はあまりにも小さかった。
ひくっ、ひくっと、息が詰まる。
『泣き虫の夜火』の二つ名は伊達じゃない。頭の隅で思ったけど、そう呼んでくれる人もいないのだと思ったら、暗い底なしの沼に落ちていくような感覚に襲われた。怖くて悲しくてたまらず、その場に蹲った。
蹲ったまま、しばらく時間の感覚が失われた。
気が付くと陽は沈み、辺りは真っ暗になっていた。
こんな暗がりの内に都に行っても、もう女人一人だと怪しまれてしまいそうだ。
目元を拭い、立ち上がる。
そしてなにかの考えがあったのかなかったのか自分でも分からないけど、いつもの道を外れて山に向かった。晴明さまが穢悪に取り込まれた、あの山だ。
あそこなら少しくらい勝手が分かるし、食べものもたくさんある。水にも困らない。なにより坤鬼舎からそう離れていなかった。
しばらく身を潜め、せめて坤鬼舎を近くに感じるくらいは許されないだろうか? 呪は使えなくても、幸い鬼女の強い体だけは健在なのだ。山でも暮らしていけるはず。
不便で人もいない。それに、
「――スケを探さないと」
どこにいるかは分からない。だけど保憲さまの口ぶりじゃ、どこかで生きているはずなんだ。
グズッと鼻をすすり、わたしは市女笠を深くかぶった。だけど急ぐ気にもなれず、久しぶりにゆっくりと足を進める。その遅さにちょっとうしろめたい心地がチクチクするけど……。
――待つ人のいないわたしの足取りは、こんなもんかな。
これからは、こういうのんびりにも慣れていかないと。𠮟ってくれる霞姉さまは、もういないのだ。
※
のんびりゆっくりと歩いて、山に到着したのは東雲の内だった。
薄ぼんやりした朝日の中、わたしは前に付けた目印を辿り、あの岩窟へ足に任せた歩調で進んでいた。
あそこなら雨露が凌げるし、沢も近いから魚も捕れるだろう。思い出だってある。それになんと言っても、まずは安全に寝泊りできる場所が必要だ。
「変わってないなー」
やがて岩窟に入ると、相変わらず暗くて冷えた空気が風のように肌を撫でた。コケで滑らないよう地面を確かめるように、一歩一歩踏みしめながら奥へと進む。
しばらくして手ごろな空洞を探し出すと、わたしは櫃と市女笠を足元に置き、壺折にしていた大袖を脱いだ。大袖は晴明さまから賜った思い出の衣だから大事にしないと。地面には置けない。
わたしは首を左右にして、見付けた岩の出っ張りに大袖をかけた。少し寝てから、木でも折って手ごろな衣架をこしらえよう。いまはとにかく疲れた。
んーっと伸びをして、空洞の中央にゴロンと寝転ぶ。それから組んだ両手を枕に、じっと天井を見つめた。
勢いと思い付きでここに来たけど、これ、坤鬼舎ではどういう扱いになるんだろう。
隠岐へは使いが行っているだろうから、わたしは失踪したって態になるのかな。
まさか追われる身にはならないと思うけど。晴明さまには心配させるだろうな。あの人、根は誰より優しいから。ああ、短い間だったけど、坤鬼舎は楽しかった。みんなに仲良くしてもらって、晴明さまにも……。
脳裏に思い出の場面が流れてくると、失ったものを実感して悲しくなってくる。寝かせた体を横に向かせ、目元を拭った。
早く寝て、明日に備えよう。お腹も空いてきた。起きたら櫃の干し飯を食べて、今度は岩窟の奥まで見に行こう。晴明さまを助けたあの部屋に……。
「動くな」
ふっと気付くと目の前に刃が突き付けられていた。
女の声。体を横にしたわたしのうしろから、小さな刃物を目の前にチラつかせ威嚇している。油断はしていたけど、気配を殺して背後まで近付くなんて……。
「……ごめんね。誰もいないと思ったから」
わたしは寝転がったまま、口だけを動かして女に告げた。そして対処を考える。髪も動かせないし、どうしようか。
「だろうな。分かるぜ。確かにこんな場所に誰かがいるとは思わねえ。そんで、この有様がタダで済むとも思ってねえはずだ。違うか?」
「銭なら、少しあるよ」
「要らねえよ。そんな都でしか使えねえモンなんか。俺は追われる身でね」
「……櫃に干魚が入ってる。干し飯も。あげるよ」
「良いベベも持ってんじゃねえか」
「それは」
刃に暗くぼんやり映る相手の目が、わたしから大袖に移った。機と見て最小の動きで刃をつまみ、小枝のように折る。鋭い音が洞窟に響いた。
「渡せないの。ごめんね」
「――やるじゃねえかよ」
殴ってくる。
気配を感じる体を回転させて飛び起き、右腕を振り上げた。
人間相手に本気は出さない。だけど話し合いで和解って感じでもなさそうだ。威嚇してから節でも絞め上げて、戦意だけでも削ぐ。そのつもりだった。
だけどわたしの目に飛び込んできたのは――。
「――スケ?」
殴りかけた手を止める。
向こうも同様で、わたしたちはお互いに腕を振り上げた姿勢で目を丸くした。勝気な鋭い目に毛先が跳ねる短い髪。額に生える二本ヅノ。
「スケ……なの? 本当に?」
「――ウソだろ? カミか?」
「そうだよ、カミだよ。会いたかった! こんなところで!」
わたしは勢いも考えずに、まっすぐスケの胸に飛び込んだ。
彼女は勢いに押されて少しだけよろめいたけど、すぐに高い背をしゃんと伸ばしてわたしを受け止めてくれた。
「生きてたんだな、カミよぉ。信じらんねえ」
「生きてたよ。お前こそずっと心配してたんだよ」
わたしはスケの背中に腕を回し、さらに力を込めた。スケは応じるように、わたしの髪を丁寧に撫でてくれた。あの頃が蘇るようで、わたしは涙を堪え彼女の胸に顔をうずめた。
※
わたしとスケは隣り合って洞窟の壁にもたれ、あれからいままでを互いに話した。
あのときわたしを捕らえたのは、検非違使ではなくて陰陽寮の官人だったこと。坤鬼舎で世話になったこと。夜火と名付けられたこと。だけど呪を使えなくなり、隠岐に向かう途中でこっちに来たということ。
スケはあれから夜盗を解散させ、勝手気ままに盗みをしながら生きてきた。だけど検非違使の警戒が強まり、都にいられなくなったらしい。そこで食べものを求めこの山に来ていた昔に思い当たり、昨日から居着いたとか。
偶然のように見えて、わたしたちがここで見えるのは必然だったのかもしれない。
「でもカミはすっかり垢抜けちまったなぁ。お上品な喋り方になっちまってさ、いいベベ着ちゃってよ」
「恥ずかしいな」
「なにを恥じるんだよ」
スケはわたしの肩に腕を回し、白い歯を見せ目を細めた。
「よかったな」
「――うん」
さっきまで寂しくて泣いていたのに、いまは別の情で涙が流れそうだった。そう言えば晴明さまはスケも見たかったと仰っていた。文でも持たせて坤鬼舎と引き合わせようか。字、ちゃんと間違えずに書けるかな。
そういう内容をかいつまんで話すと、
「俺なんかいいから、自分が帰りゃいいじゃねえか」
スケはきょとんとして言った。
「無理だよ。わたしは……」
「それでもカミかよ」
腕をほどき、スケが続ける。視線は前を向いていた。
「そのナントカって場所がいいなら、そこにいたらいいじゃねえか。居場所は他人に定められるもんじゃねえだろ」
「言ったでしょ。いられなくなったの」
「いねと言われたら素直に出て行くのかよ。あんときは往生際悪く、俺を助けてくれただろうが」
「呪が使えなくなっちゃったし」
「呪ってあれだろ? 俺で言やあ土を泥にしちまう力」
スケの質問に、わたしは頷く。
「俺もあれ、使えねえときがあったぜ」
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