廃墟の裏庭は
石壁に囲まれた狭い舞台のように
重苦しい沈黙を閉じ込めていた。
陽光は窓を失った壁の隙間から細く差し込み
舞い上がる塵の粒子を斜めに照らす。
そこに響く声は
空気を切り裂く刃のように鋭かった。
「⋯⋯なんと醜悪で⋯⋯おぞましいことを」
時也の声は、震えてはいなかった。
だが、その言葉に込められた烈しさは
肌を刺すほど鋭く
場の温度を一瞬にして凍てつかせる。
殺気が奔った。
鋭く研ぎ澄まされた一閃のような気配が
廃墟の一角に凝縮し、石畳の上に絡みつく。
拘束された男は息を飲むことすらできず
瞳が大きく揺れ
全身が痙攣に似た震えを走らせた。
まるで刃を突き付けられた獣が
自らの死を悟った瞬間のように。
「──っ!おい、アライン!!」
ソーレンが声を荒げた。
低く怒気を帯びたその声は
咥えた煙草の先を赤く閃かせ
紫煙が鋭く流れた。
だが、時也の隣にいたアラインは
まるで予期していたかのように
落ち着いていた。
慌ての色はなく
むしろ、余裕の笑みが
その口端を静かに吊り上げる。
「はいはい。
まだ引き金を引いちゃ──だぁめ」
白い指がすっと伸び
銃のセーフティを音もなく掛ける。
冷ややかな金属音がひとつ響き
すぐさま時也の手から銃を取り上げた。
その所作は、舞踏の一幕のように滑らかで
強引さすら一種の美学へと昇華されていた。
ソーレンは舌打ちを放ち
琥珀色の瞳を鋭く光らせる。
「情報を全部吐かせる前に殺す気かよ。
銃声でも響かせりゃ
野次馬どころか警邏まで来る。
⋯⋯何を聞いたのかは知らねぇが
頭冷やせよ、バカ」
石畳に這いつくばる男は
なおも呼吸を奪われた魚のように口を開閉し
額から滴る脂汗に濡れていた。
背筋は凍り付いたように硬直し
震えは止まらない。
アラインはそんな様を一瞥し
唇の端を柔らかに持ち上げる。
「そんなに苛立たなくてもいいさ。
ふむ⋯⋯せっかくだから、ソーレン。
キミにも分かりやすいように
〝ヒント〟をあげようじゃないか」
彼の白い指先で
小さなトークンが光を返した。
冷たく無機質な輝きが狭い空間を裂き
石壁に鈍色の反射を刻む。
指の間で転がされたそれは、滑らかに回転し
両面の意匠を次々と晒していった。
片面には、蛇が杖に絡みつく精緻な刻印。
古来より医療の象徴とされる紋章が
細密な線で浮かび上がっている。
反対の面には
〝CIVIS FUND〟と古風な活字体。
慈善を思わせる響きを持ちながら
その実、欺瞞と偽善を纏った冷笑が
金属に刻まれていた。
アラインのアースブルーの双眸が
氷のように輝きを放つ。
その光は深い湖面の冷たさを宿し
拘束された男の鼓動をさらに乱打させた。
「どうだい?」
声は甘やかに、しかし刃を含む。
「マフィアが人身売買に手を染めるなんて
今どき驚くことじゃない。
でも⋯⋯その懐からこんな洒落た
〝お守り〟が出てきた。
医療の象徴と、偽善の看板が揃ってる。
──さて、これは何を意味するのかな?」
ソーレンは苦々しげに顔を歪め
煙草の煙を吐きながら吐き捨てる。
「⋯⋯人体実験だ。
あるいは──臓器の売買。
どっちにしろ
医者の外套を羽織った地獄、だな」
その言葉に
拘束された男の顔色は一気に蒼白となる。
心の奥底に隠していた闇を
突き破られたかのように
瞳孔が震え
口元が乾いた音を立てて開閉した。
時也は銃を取り戻そうとはせず
ただ静かに頷いた。
鳶色の瞳は未だ鋭く
しかしその光は怒りを越え
確固たる決意へと変わっていた。
廃墟の空気が
まるで血に染まった布のように
重く垂れ込めていた。
その中心で、時也の声が響く。
「いいえ⋯⋯この方々、いや──
この〝下衆ども〟が行っているのは
それすら生優しい⋯⋯っ!」
その声音は
普段の柔らかで温厚な響きではなかった。
怒りに打ち震えるその声は
胸の奥底から噴き上がった
灼熱の溶岩のように荒々しく
耳を刺すほどの烈しさを帯びていた。
彼の肩が震えている。
それは恐怖からではなく
憤怒に燃える魂が
肉体を突き動かしているからだった。
普段は誰に対しても
敬語を崩さぬ彼の姿からは想像もできぬほど
その震えは生々しく
破壊的な熱を孕んでいる。
背筋を伸ばし
鳶色の瞳を真っ直ぐに向けたその姿は
もはや──
礼節の仮面を脱ぎ捨てた陰陽師ではなく
桜に宿りし怒れる鬼神のごとき
威容を放っていた。
アラインは少し離れた位置から
その背を眺めていた。
氷色の瞳に笑みを浮かべ
唇を愉悦に歪める。
──殺気を纏った時也は、最高に美しい。
怒りに燃え
普段は見せぬ鋭さと
苛烈さを露わにするその姿に──
アラインの胸中に湧き上がったのは
恐怖ではなく、恍惚に近い愉悦だった。
その冷笑に気付いたのは
真正面で膝をついている男だけだった。
石畳の上に這い蹲ったまま
その笑みを見て背筋を凍らせる。
視界の端に映るアラインの嗤いと
正面から叩き付けられる時也の憤怒。
二重の恐怖に締め上げられ
喉は塞がれ、呼吸すら儘ならない。
時也の声が、さらに強く響いた。
「この組織は──
売買された人間を
観客の目前で生きたまま解体し⋯⋯
卸売にしている!
まるで、見世物のようにっっっ!!」
石壁が震えたかのように
その言葉は廃墟の奥へ木霊した。
抑えようとしても抑えきれない怒気が
彼の全身から溢れ出す。
温厚さも、礼節も
その怒りの焔の前では
無意味に焼き尽くされる。
鳶色の双眸は鋭く細められ
深紅の怒りが宿っていた。
まるで炎に照らされた桜の花弁が
風に散る瞬間のように
儚さと烈しさを同時に湛えながら。
その場の誰もが、息を呑んでいた。
ソーレンでさえ、煙草を咥えたまま眉を寄せ
言葉を失ったほどだ。
アビゲイルは両の手を唇に重ね
涙を堪えるように震えていた。
時也の声は、さらに深く落ちた。
静かで、だが刃よりも鋭い低音で。
「⋯⋯人を、命を⋯⋯
そんな風に弄ぶなど──
断じて許せません⋯⋯っ」
その瞬間──
拘束された男は
絶叫を上げることすらできなかった。
ただ地べたに張り付くように震え
冷や汗を垂らしながら
まるで
自らの死刑宣告を聞かされた囚人のように
凍り付いていた。
廃墟の一角に凝縮したその怒りは
炎ではなく氷の刃のように冷たく鋭い。
だが確かに
そこにいた全員の心臓を抉る熱量を
持っていた──⋯