ビゼが全快になるまでおおよそ一週間かかった。とはいえ、ユカリが目の当たりにした医術はかなり高度なものだったようだ。
満月の夜に脱皮した蛇の抜け殻、最も古い樫に宿った宿り木の葉、不眠鳥の嘴に得体のしれない鱗、それら力ある薬の材料に加え、捻じれた井戸のような妙な形の道具や流れる川のように色合いを変える器械が駆使されて魔法使いビゼは治療された。精々いくつかの薬草の煎じ方やおまじないを知っている程度のユカリとは比べるべくもない。行商人の行き交う発展した街だったことが幸いしたようだった。
ユカリは神殿の病人や怪我人の為に設けられた広間へと毎日お見舞いに行った。
いつもパディアは献身的にビゼの世話をしていて、全快と見なされたその日まで、パディアの寝姿をユカリが見ることは一度としてなかった。そして負担になるまいと思い、パディアを通して様子を知るにとどめた。
そうしてとうとうビゼが神殿を出ていく日になった。ユカリはこの街に来てからいつもの通り、屋台で食事を終え、人々が仕事を始める時間に神殿へと向かった。
ミッダーンの神殿は街の大きさに反してこぢんまりとしているが、よく清掃されていた。いつも喧噪に満たされた街に反し、いつも静寂に包まれていて、神官によって捧げられる祈りまでもが、星の瞬きのように静かで厳かだ。
目の覚めるような赤に塗られた屋根が初夏の青空に際立っている。とはいえ太陽は地上の神殿の赤などに気後れすることはなく、その古来よりの勤めを果たすため、煌々と輝きながら天の坂を上りつつ、遍く大地を平等に照らさんとする。
しかし時に弱った人間にはその強すぎる光が障ることもある。そのため、傲慢なる光がむやみやたらと侵入することのないように、この神殿の安息室は他の棟よりも背が低く、またその軒先は広くとられていた。
また巧妙に並べられた衝立によって、ビゼの療養するこの部屋は適度に薄暗く、それでいて気持ち良い風の通り道になっていた。
寝台に横になっていたビゼが身を起こし、床に両足を投げ出す。赤毛の長髪は切り揃えられ、髭は綺麗に剃られている。未だ不健康そうな容貌ではあるが、その美に衰えるところはなく緑の瞳には光が宿っていた。細く痩せていた手足も多少はましになったようにユカリには思えた。
「改めまして初めまして。ユカリと申します」ユカリは寝台に座るビゼとパディアと挨拶を交わす。「その後お加減はいかがですか?」
「ご心配ありがとうございます。もうすっかり良くなりましたよ」とビゼは答え、よろよろと立ち上がり、ユカリの両手を掴んで無理に握手する。声はまだ少し弱弱しいが、しっかり聞き取れるたおやかな声だ。名も無き騎士とはまるで声が違う。「貴女がユカリさんですか。珍しいお名前ですね。今回のことで僕たち二人を救ってくださったとパディアから聞きました。感謝申し上げます」
そう言いながらもビゼは、ユカリを不躾なまでにしげしげと見つめる。何かへの興味を隠し切れないといった様子だ。それを察したらしいパディアにビゼは再び無理やり寝台に座らせられる。
「いえ、何というか行きがかりですから」とユカリは謙遜する。
「行きがかり……。魔導書、ですね!?」ビゼは子供のように目を輝かせて身を乗り出した。「貴女もまたその険しさに値する魔導書探求の旅路の途中である、と」
ユカリはどう答えたものか迷った。この魔法使いビゼも魔導書を探し求めて旅に出た人物だ。ユカリの所持する魔導書についてどう考えているのか分からない。力づくで奪うか騙し取るか。考えられないことではない。
「ビゼ様」とパディアが師をたしなめる。「我々はユカリにとってまだ信頼すべき人間ではないのですよ」
「そうか、それもそうだね」ビゼは目に見えて落ち込む。「だがせめて我々を苦しめた守護者の魔導書について君の所見を聞かせてくれないか?」
それくらいは良いかな、とユカリは考える。一週間、魔導書の魔法を試し、多くのことを知ることができた。叫び声が誰にも聞こえない場所を見つけるのは骨が折れたが。
ユカリは魔導書について気付いたことを頭の中でまとめる。
「はい。この魔法は叫びそのものが呪文なんです。それによって守護者が作り出されます」
「守護者というのは僕のあの鎧?」
あの鎧は売り払ってしまったらしい。ビゼが生きているとなればパディアにとって形見ではなく、本人も特に思い入れはなかったようだ。
ユカリは少し考えて適切な言葉を探す。
「そうであるとも、そうでないとも言えます。守護者は近くにある人の形をした物か、無ければ何かを人の形に加工して、それに宿るのです。何度繰り返しても、守護者を作り出すと、それは例の変な騎士の人格と記憶を引き継いでいました」
この一週間の間に守護者と色々語り合ったが、本人は魔導書について何も知らず、魔導書によって作り出された存在だと自覚しながらも、特に気にしている様子はなかった。
「つまり鎧が無ければ、その場にある何かを材料にして魔法の従者を作り出すと」
ユカリは肯定するように頷き、答える。「私もそう理解しました。さらに正確に言えば、呪文を唱えた際に魔導書そのものの近くにあるものが守護者と化します。ビゼさんの場合、そのまま鎧が守護者と化しましたが、地面に魔導書を置いた場合、地面から土人形が盛り上がって守護者となり、岩に張り付けた場合瞬く間に守護者の彫刻物が彫り刻まれて現れました」
「有機物は試しましたか? 水や火は?」とビゼは楽し気に尋ねた。
「生き物は木で。だけど下の地面から土人形が現れました。水や火から守護者が現れることはありませんでした。いずれも地面から守護者が飛び出しましたね」
ビゼは顎に手を当てて考える。
「空気も駄目なわけだし。固体だけということか。そのことについて例の魔導書には書いていなかったんだね?」
ユカリはパディアの方をちらりと見た。別に口止めしていたわけでもないので責めるつもりはないが、魔導書の文字を読めることについてあまり知られたくはない。
「ごめんね」とパディアは多少悪びれて言った。「私の知っていることは全て話してしまったわ」
「いいんです。そうですね。魔導書にも多少の解説が記されていますが、何もかもというわけではないようです」
というよりもほとんど何も書かれていないに等しい情報量だ。書いてあることは概要としかいえない。
「ありがとう。とても面白かったよ。魔導書の魔法は何度か見たことがあるけど、魔導書の中身は中々お目にかかれないのでね。それでユカリさんはこれからどうするんだい?」
どうするも何も、とユカリは考える。この地の出来事でユカリの目的が変わるような影響はない。
「私は、また旅を続けるだけです」
「魔導書探求の旅を、だね」とビゼは確認するように言ったが、ユカリはそれを肯定も否定もしなかった。「だけど今回見つけたそれは求めていたものではなかった、ということだろうか? 何か具体的に欲する魔導書があるのかな?」
ユカリは首を横に振った。振ったが話してしまっても良いものだろうか、と今になって言い澱む。
「まさか」とビゼが言う。子供みたいに声を弾ませている。パディアの方は分かっていない様子だ。「全てなんだね? 全ての魔導書を手中に収めると」
随分察しが良い。魔導書の収集は、世間体が悪いなどという言葉で収まる行為ではない。そのような発想が出てくること自体、ビゼという人間の人となりを表しているように思えた。今更否定してもビゼが納得するような答えを用意することは出来そうにない。
「まあ、そういうことです」とユカリは控えめに首肯する。
パディアは言うべき言葉が見つからないようでビゼとユカリを交互に見ている。
「全てということは他人が所持する魔導書を譲り受ける必要もあるよ?」
「はい」
「国家や、あの救済機構と争うことにもなる」
「はい」
「西の大王国、北の神秘の国々、ありとあらゆる危険な場所に踏み込むことになるんだよ?」
「覚悟の上です」
少しだけ嘘だった。かつてした覚悟はそこまで具体的な未来を想像したものではなかった。
「面白い!」とビゼ。
「ビゼ様!」とパディア。
「是非我々をその旅に同行させて欲しい」ビゼは興奮した様子で立ち上がった。
すらりとした出で立ちだが、戦う者のなりではなかった。一週間前の大立ち回りは全て守護者のお陰だったのだ。
申し出を聞いてユカリは少し後ずさってしまう。
パディアがすがるようにビゼに尋ねる。「私もですか!? ビゼ様!」
「パディア。君、昨日僕にどこまでもついてくるって言ってたじゃないか」
パディアが赤面し、狼狽する。
「そうは言いましたが、この期に及んでまだ魔導書を探すだなんて」
「探す、というのとは違うよ、パディア」ビゼがユカリに向き直る。「さてユカリさん。さっきも言ったが、全ての魔導書を求めるならば、いずれは魔導書を所持している者たちと渡り合わなくてはいけないわけだけど。二人、僕の伝手で会わせられる所有者がいる。二人とも魔導書を所有していることは公にしているから、君一人でもいずれたどり着くことは出来るだろうけれど。僕たちを連れて行けば多少は楽になるかもしれない。竜を退治する難事が竜を気絶させる難事程度にはなるだろう。それに……」そう言って、その手を差し出す。「僕たちは恩返ししたいんだ」
どこまで本当のことを喋っているのかユカリには分からない。しかし魔導書の一般的な知識に関して、ビゼは圧倒的にユカリよりも、世間一般の人々よりも多くを知るだろうことは分かった。
「分かりました」と言ってユカリは躊躇いを隠してビゼの手を握り返す。「こちらからもお願いします。協力してください」
「ほら」とビゼが言い、パディアの手を掴んで、さらに重ねさせた。三人は固く手を握り合った。
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