賢介さんと外泊してしまった翌日。
夕方仕事から帰宅した私は、おばさまに『もう外泊はダメよ』と釘を刺された。
きっと心配して待っていてくれたのだろうと申し訳ない気持ちになった私は、せめてもの罪滅ぼしにと夕食づくりの手伝いを申し出た。
「せっかく琴子ちゃんが手伝ってくれるんだから、今日は餃子にするわね」
台所でエプロンを着けたおばさまが準備を始める。
「餃子ですか?」
「そう。私の餃子は美味しいのよ」
へえー。
随分庶民の味だなと思っていると、おばさまが私を振り返った。
「母が小さい頃に作ってくれたの。私にとっては、お袋の味なのよ」
「そうなんですね」
母を知らずに育った私には不思議な感覚だ。
おばさまの作る餃子はとてもシンプルだった。
材料は白菜と挽肉とショウガ。隠し味に味噌。
コツは白菜を細かく切って水気をギュッと絞る事。
皮も市販の物で、至ってフツーの餃子だ。
「さあ、焼くわよ」
ホットプレートいっぱいに並べられた餃子が水蒸気に蒸され、ジュウジュウと音を立てる。
「うわー、美味そうだね」
ちょうど帰宅した賢介さんも寄ってきた。
「もうすぐ出来るから、着替えてきなさい。お父さんももうじき帰るから」
なんだかとても、おばさまが嬉しそうだ。
程なくおじさまも帰宅して、4人で餃子を囲むこととなった。
***
おばさまの手作り餃子は、絶品だった。
野菜と肉のバランスがよくて、隠し味の味噌も焼き加減もばっちり。
あんまり美味しくて、ついつい食べ過ぎてしまった。
「ところで琴子、昨日は新宿クリーンホテルに泊まったのか?」
え?
おじさまの言葉に、餃子を持っていた箸が止まった。
「父さん、やめろよ。仕事で遅くなったんだ。俺が泊まれって言ったんだから、いいだろう」
賢介さんが不満そうな顔をする。
しかし、おじさまはやめなかった。
「お前だって、あそこがうちの系列のホテルだって知らないじゃわけないだろう。お前達が泊まれば、すぐに私の耳にも入るのは分かったことだ」
それは、苛立ちを含んだ声。
確かに、昨日泊まったのは平石財閥のグループホテルだった。
そこに御曹司の賢介さんが行けば、当然すぐにおじさまの耳に入る。
きっとそういうことなのだろう。
「悪かった。今後は気をつけるよ」
反発するのかなと思ったのに、ビールグラスを手にしたままの賢介さんは素直に謝った。
昨日は間違いなく突発的な事態だった。
賢介さんにとって他に方法がなかったのか、その選択がベストだと思ったのか、理由はわからないけれどおじさまに知られるのは想定内のことだったのだろう。
賢介さんを見ていてそう感じた。
「ほら、琴子ちゃん。もっと食べなさい」
箸の止まった私に、おばさまが勧めてくれる。
「ありがとうございます」
再び箸を伸ばしながら、私もビールを口にした。
***
「琴子」
家族そろっての夕食も終わりかけた頃、真面目な顔でおじさまに呼ばれた。
「はい」
手を止めて、私も姿勢を正す。
おじさまの声にはそうしてしまうほどの空気が漂っていた。
「前にも言ったが、琴子はうちの娘だ。賢介と同じように大切に思っている。昨日は事情があったんだろうから、もう何も言わない。しかし、私と母さんがどれだけ心配していたかわかるか?」
「すみません」
今は謝ることしか出来ない。
「我が家は色んな意味で世間から注目されることも多い。やりにくいこともあるだろう。昨日みたいに外泊すれば、すぐに噂は広まる。不自由だと思うかもしれないが、うちの子になった以上は自分の行動には気をつけなさい」
おじさまの言葉が胸に響いて、私は段々うつむいてしまった。
賢介さんも反論はせずに、黙って聞いていた。
後になって、
『奥様も旦那様も夜遅くまで起きて待っていたしたんですよ』と、喜代さんに聞かされた。
おじさまとおばさまを裏切ってしまったような後悔にどっぷり浸りながら、それでも私は平石家での生活に戻っていった。
***
あれ以来、賢介さんも何も言ってこない。
おじさまもおばさまも変わりなく優しく接してくれて、いつも1人でがむしゃらに生きてきた私が誰かに守られることに慣らされていく。
平石家での暮らしは心地よすぎて、時々逃げ出したくなった。
失うことが不安で、傷つくことが怖くて、そうなる前に自分から手放したくなるのだ。
「うわー、美優ってやっぱり専務のお相手だったのね」
昼食の休憩時間に、社食でランチをつつきながら彩佳さんが口にした。
ん?
美優さん?
見ると、彩佳さんの手には週刊誌。
見開きのページに、『モデル美優と平石財閥御曹司が婚約か?』の記事。
あれ、賢介さんの写真も載っている。
でも、そんな馬鹿な・・・
ランチを食べる手を止めて、私は週刊誌を覗き込んだ。
「琴子ちゃん、知ってた?」
「いいえ」
彩佳さんに訊かれて、私は首を振った。
***
その後、どうやって午後の勤務を終えたのか正直記憶がない。
ただ、美優さんと賢介さんの記事が頭の中を巡っていた。
思い出したのは、以前美優さんが言っていた言葉。
『賢介さんとの縁談は、家同士の利害関係がある。だから、ただの恋愛とは違う』
もしそれが本当なら、私は完全な邪魔者だ。
「琴子」
肩をポンポンと叩かれて、私は振り返った。
「どうしたのよ。ボーッとしちゃって」
おしゃれに決めた麗が、そこにいた。
「別にどうもしないけど・・・」
つい自分の姿を見返して、肩を落とした。
さすがにジーンズではないけれど、通勤着にしてはカジュアルな私の服装。
もちろん制服があるんだから困ることはないけれど、オシャレとは程遠い。
特にビシッとブランド物の服で決めた麗の隣に立てば、貧相な感じは否めない。
「元気がないわね?」
「そんなことないよ」
言いながらも、自分でもテンションが低い自覚はある。
「ねえ、飲みに行こうよ?」
私の落ち込みが分かったのか、麗が誘ってくれたけれど、
「今日はやめとく」
先日外泊して怒られたばかりだし。
「じゃあ、琴子の家に泊めてよ。それならいいでしょう?」
「えーっ」
思わず口を尖らせた。
居候先に友達を呼ぶなんて、図々しい気がする。
でも、ものは考えようだ。
麗がいれば賢介さんと二人きりになることもない。
「わかった、おばさまに訊いてみるわ」
私は自宅に電話をかけることにした。
当然、おばさまは喜んで麗を招待しなさいと言ってくれた。
よかった。
これで、賢介さんとの居づらさが和らぐ。
ホッと胸をなで下ろした私は、麗と2人買い出しをして自宅に向かうことにした。
***
チューハイ。
ワイン。
つまみに、デザート。
お菓子もたっぷり。
こんなに食べたら豚になるわよと笑いながら、大きな袋を抱えた私と麗が平石家の玄関をくぐる。
「おばさま。お邪魔しまーす」
私よりも付き合いの長い麗は、慣れた様子で玄関を上がり、私の部屋に向かう。
「麗ちゃん。ママには言って来たの?」
後ろからおばさまの心配そうな声が心配するけれど、
「ママは地方公演で今月は帰らないんです」
「そう。でも、お家には連絡なさい」
「はーい」
「琴子、借りるね」
いつの間にか私のスウェットを引っ張り出してきて、着替えだす麗。
本当にマイペースなんだから。
私も部屋着に着替え、2人で小さなテーブルに食べ物を並べる。
「カンパーイ」
さあ、宴の始まりだ。
***
「琴子の元気がないのは、美優の記事が原因?」
かなりお酒もすすみ、頬を赤らめた麗が私をジッと見る。
私は何も答えなかった。
「美優や、美優の親が賢兄との縁談を薦めたがっているのは確かよ。賢兄はその気がないみたいだけれど」
やっぱり、美優さんと賢介さんの縁談は実際にあるんだ。
覚悟はしていたけれど、麗の口からきかせられるとショックではある。
「でも、まだどうなるかわからないわよ。人の気持ちなんて変わることもあるしね。ただ色んな人の思惑が絡んでいるから、賢兄としては簡単に突っぱねられないんでしょ」
なるほど、思惑ね。
まあ、私には関係のない話だわ。
私はポテチに手を伸ばしながら、二本目のビールを開けた。
「琴子、やっぱり気になる?」
「別に。私がどうこう言う話じゃないでしょう」
私の顔を覗き込む麗を避けるように、一気にビールを流し込んだ。
「かわいくないわね。気になって仕方ないって、顔に書いてあるのに」
「気のせいよ」
そう。私はただの居候で、いつかこの家を出て行く人間。
美優さんは好きではないけれど、賢介さんにとってふさわしい人なら喜んで祝福するつもりだ。
「馬鹿ね。自分に正直に生きないと、後悔するのに」
本当に馬鹿ねと、麗が口にした。
私だって、麗の半分でも自分に自信があったら、素直になれるのかもしれない。
でも、無理。ここは仮の住まいなんだから。
結局、明け方まで二人で飲んだ。
幸い今日は土曜日で、仕事は休み。
明るくなってから眠りについた私たちは、昼過ぎまで起きることはなかった。
***
トントン。
「琴子ちゃん。いい加減に起きなさい」
おばさまの心配そうな声が廊下から聞こえる。
「はーい」
時計を見ると、午後1時だ。
重たい体を必死に起こして、私は部屋のドアを開けた。
「はい」
開いたドアの隙間からゴミ袋を渡された。
???
訳がわからずポカンと見ていると、
「自分で汚したんだから、片付けなさい」
おばさまにしては珍しく厳しい顔。
まあね、いくら土曜日とは言っても昼過ぎまで寝ていれば怒られて当然。
自分が悪いのだと自覚のある私は素直にゴミ袋受け取ると、麗と2人で部屋の片付けを始めた。
***
その後部屋を片付け着替えをしてから部屋を出ると、リビングには賢介さんがいた。
「おはよう、早いね」
嫌みでしかない挨拶をされ、私は黙り込む。
「賢兄が土曜日にいるなんて、珍しいわね」
一方麗は、嫌味などまるで気にしていない様子だ。
「俺だって一応週休二日だからね」
賢介さんはそう言うけれど、実際は仕事が忙しくて土曜日はほぼ家にいない。
唯一の休みである日曜日もゴルフや付き合いに消えていくことが多いようだから、休みなんてあってないようなものなのだろう。
「そうだ、麗は今日暇なのか?」
何かを思い出したように、賢介さんが尋ねた。
「まあね。何か用なの?」
「時間があるなら琴子と買い物に行ってくれよ。秋物の服を一緒に選んでやって欲しいんだ」
え?
「琴子の服?」
私と同じように、麗も不思議そうな顔をする。
「ああ。琴子の奴、いくら言っても遠慮して自分のものを買おうとしないんだ」
「確かに、通勤着もかなりのヘビーローテで回しているもの」
「そうだろ?せっかくかわいいのに、もっとオシャレしろって言うんだけれどな」
まるで私は無視して、2人の会話は行われる。
「あの、必要ありませんから。そもそも、今は困っていません」
賢介さんの方を向いてハッキリと言った。
しかし、
「ダメだよ。このあいだだって、ジーンズにTシャツで会社に行こうとしたじゃないか」
賢介さんは引いてくれそうにない。
平石家に暮らすものとしてみっともないと言われれば、何も言い返せない。
ここに住まわせてもらっているからには、それなりの身だしなみがあるのかもしれない。
確かに私は安物の服ばかり着ているし、枚数だって多く持ってはいない。
それでも毎日同じにならないように、気を付けて着まわしていた。
そもそも、ジーンズにTシャツがそんなに悪いんだろうか?
別にその格好で働くわけではない。
通勤の時だけなのに・・・
「琴子、怒りが顔に出てるわよ」
さすがに、麗に突っ込まれた。
「賢兄もいつもの優しさがなさ過ぎでしょ。どうしたの?」
「俺は別に・・・」
先日賢介さんに告白され二人で外泊した日から、私はなんとなく賢介さんを避けている。
面と向かって話すことへの気まずさと、本性をさらけ出してしまったことへの恥ずかしさから私は逃げ腰になっていた。
そのせいか、賢介さんの方も機嫌の悪いことが多い。
「じゃあ琴子、買い物に行こうよ。あなたに似合う服をプロの目で選んであげるから」
「いや、でも・・・」
「賢兄は支払いをお願いね」
断ろうとする私を引っ張って、麗は出かける準備を始めた。
***
向かったのは、麗行きつけのブティック。
大きな壁一面にブランド名が書かれた高級感漂うショップは、普段の私なら店に入ることもためらうような場所。
それでも麗に連れられた私は、恐る恐る足を踏み入れた。
「ねえ、これなんか琴子に似合いそうじゃない?」
「そうかなあ」
プロの目って言うだけあって、普段自分では選ばない服を麗がチョイスしてくれる。
それがまた、よく似合っていた。
シンプルで、着心地がよくて、飽きのこないデザイン。
これなら、頑張って買いたくなると私にも思えた。
ブラウス、スカート、パンツとスーツも一着。
気が付けば、随分買い込んでしまった。
「全部でいくらなの?」
小さな声で麗に訊く。
「聞かない方がいいわ。賢兄のカードで払うんだからいいのよ。甘えていなさい」
そう言われても・・・
便乗して麗もスーツを選び、賢介さんから預かってきたカードで支払いをする。
一時間ほどの滞在で大量の服を買い込み、私たちは両手いっぱいの荷物を抱えて店を出た。
***
店を出て、さあこの先どこへ行こうかを話をしていると、
「麗」
背後から声がかかった。
「あれ、陸仁(りくと)さん」
麗の顔がほころぶ。
「こんにちは」
近づいてきた男性が私に会釈し、
「こんにちは」
私も挨拶を返した。
陸仁さんと呼ばれた男性は年齢30歳くらいで、ちょうど賢介さんと同じ歳くらいに見える。
身長は、180センチほどで、目鼻立ちのはっきりした精悍な顔立ちだ。
うーん、かっこいいな。
それに、どことなく賢介さんに似ている。
「随分大荷物だね」
手に持った荷物に気づき、男性が持ってくれた。
「ありがとう」
「すみません」
駐車場の車まで、謎のイケメンが荷物を運んでくれた。
そして、車に積み込むとそのまま立ち去ってしまった。
「あの人、知り合いなの?」
身に着けている服も、立ち居振る舞いも、ただものではなかった。
私が感じた印象的には、お金持ちなセレブで賢介さんと同じ匂いのする男性。
やはり彼の素性が気になって、私は麗に聞いてみた。
「彼は、平石陸仁(ひらいしりくと)さん。賢兄の従兄弟よ。平石建設の副社長で世間的には賢兄のライバルって言われている人」
ライバル?
賢介さんにそんな人がいたのか。
どうやら私は、賢介さんのことを何も知らないらしい。
「性格的には対照的な2人だけど、見た目はわりとは似てるでしょ?」
「うん、そうね」
何よりもまとっているオーラというか、雰囲気が同じ気がする。
遠ざかっていく後ろ姿を見ながら、御曹司って普通に街中にいるのねと私は思っていた。