控え室に響く時計の針の音が、妙に耳に残る。台本を持つ手が汗で湿っているのに気づき、慌ててズボンで拭った。押しつぶされそうなほど気が重い。
初主演ドラマ。華やかなラブストーリー。すべてが初めて尽くしの挑戦に胸が躍る一方で、どうしても頭から離れない不安があった。
「キスシーン……」
何を隠そう、女性経験など皆無だ。演技の勉強は重ねてきたが、実際は誰かに触れたことすらほとんどない。そんな自分が画面の中でリアルな恋愛を表現できるのか。誰にも言えず、一人で悶々と悩んでいた。
ドアが開く音にびくりと肩をすくめる。振り返ると、そこにはひでが立っていた。
「何だよ、その顔」
コーラを片手に近づいて来た兄は、俺の向かいの椅子に腰を下ろした。
「……別に、なんでもない」
言葉を濁してみたものの、ひでは逃がしてくれない。
「ほら、言えって。俺が聞いてやるから」
冗談交じりの口調に、張り詰めていた自分の気が少しだけ緩む気がした。
「…次のドラマ、知ってるだろ。恋愛モノの」
「もちろん。楽しみにしてるよ」
「それは、ありがとう。……じゃなくて、」
「ん?」
「……あのさ……もし、キスシーンとか…あったら、どうしようって」
ひでは一瞬目を丸くし、それから吹き出すように笑い声を漏らした。
「お前、そんなことで悩んでたのかよ!」
「だって! 俺、女の人としたことないし!上手く出来なくて、そのせいで迷惑かかったらどうしようって不安なんだよ!」
声を張り上げた瞬間、自分が想像以上に本気で焦っていることに気付く。恥ずかしさに顔が熱くなる。
そんな俺を見て、ひでは「ごめん、ごめん」とコーラを置き、しばらく考えるような仕草をした後、ふっと笑って言った。
「俺が練習相手やろうか?」
「………は?」
思わず声が裏返る。
「他に頼める相手いないだろ。俺となら、ライブとかでよくしてるし、お前がどんな下手くそでも迷惑とかないから安心だろ?」
そんな実の兄からの提案、きっと、普通は有り得ないんだろう。
でも、ひではこういう奴だった。弟のために、ファンサービスでもなんでもないところで、キスシーンの練習に付き合える、そんな奴。
どうしても不安を解消したい今、こんなに条件の良い解決方法が目の前にあるなんて魅力的でしかない。
「…下手くそって、まだ決まってないだろ」
「お前、そこかよ」
「……お願いします…」
俺は消え入りそうな声で呟いた。
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「じゃあ、俺からするから、こっち向いて」
ひでの声が静かな空間に響いた。ソファに並んで座る体制で、目を瞑るべきか開けているべきか迷い、視線を手元の台本に落としたままでいた。
「なんだよ、固まってんじゃん」
そう言ってまた笑われた。ひでの手がそっと肩に置かれ、その手に軽く押されるように顔を向ける。謎の緊張感から、目の前にあるひでの顔を見ながら、相変わらず肌綺麗だななんて場違いなことを考える。ほんの数センチの距離。
カメラの前でファンサービスを混じえたような軽いキスはよくしているのに、今日は何故か心臓が落ち着かない。
「……ほんとにするの?」
「お前が頼んだんだろ?」
ひでは冗談めかした調子を崩さず、やけにあっけらかんとしている。その態度に余裕を感じ、少しだけ悔しくなる。
「目、閉じて」
短く命じる声に従うように、ゆっくり瞼を閉じた。
次の瞬間、唇に触れたものに全身がびくりと震える。柔らかくて暖かい__いつもの感触のはずなのに、今日はなにか違う感じがする。
「…次、しゅーとからしてみな」
「え、俺からもするの」
「当たり前だろ。お前の練習な?」
軽い調子で言われ、力が少し抜けるが、心臓はまだ少し早いままだ。
何とか呼吸を整えながら顔を近づけ、目を伏せて唇を付ける。
少し震えていることに、気づかないでくれと願いながら唇を離す。
「ん、上手」
ひでは満足そうに言うと、またすぐに距離を詰めてきた。
「次はもう少し長めにするよ」
その声はさっきより低く響いて、妙に耳に残った。
今度はしっかり唇が重なり、温かい感触がじわじわと広がっていく。
思わず手を握りしめていた。
「ん……」
微かに漏れた自分の声に驚く。触れるだけだったはずから、ひでの唇がゆっくりと動き始め、啄むように何度も優しく触れてくる。
「…しゅーと、力抜いて」
囁くような声に従い、ぎゅっと固くなった肩を少しだけ緩めた。
しかし、次の瞬間、唇に感じる感触が変わる。
ひではゆっくりと角度を変え、更に深く唇を押し当ててきた。軽く吸い上げられる感触に、自然と声を漏らしそうになるのを必死で堪える。
(…やばい、気持ちい…)
快楽から逃れようと軽くひでの胸を押すが、びくともしない。代わりに唇の端を甘噛みされた。次第に唇だけではなく、湿ったものが唇に触れてきて、息が詰まりそうになった。
「まっ…ひで…っ…んぅ、」
止めようと声を出しても、耳を塞ぎたくなるような情けない声が漏れるだけだ。
逃げるように顔を逸らそうとすると、ひでが優しく顎を掴んで、それ以上動けなくなる。
「…お前の口、柔らかくて気持ちい」
優しい口調で言いながらも、その顔は少しも笑っていない。
瞳の奥にちらちらと熱が揺れるのを感じ、ズクンと胸が疼く。
こんな兄の顔、知らない。
再び重なる唇。その感触がさらに深くなっていく。
顎をつかんだ手と舌先に、唇を開くように促されると、熱い吐息と共に舌が入り込んできた。俺はただされるがまま、ひでに身を委ね、舌の動きについていくことに必死になっていた。
「んっ……はぁ……っ」
しばらくして、ひではようやく唇を離した。
「……今日はここまで」
どこか満足げに呟く声が耳に残る。
ぼうっとした頭で、荒くなった息を整えようとするが、身体が言うことをきかない。
ポンと頭に手を乗せられ、ふと顔を上げると、ひではいつもの軽い笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
「お前さ、そんなんじゃ危ないぞ」
その意味が良く分からないまま、ひでは何事もなかったようにコーラを飲み始めてしまった。
俺は早鐘のように鳴る心臓を落ち着かせる。兄の唇の感触が、まだ鮮明に焼き付いていた。
コメント
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めっちゃ良いです✨もし良かったら続きでしゅーとくんのドラマ本番のあとひでくんに消毒してもらうっていうのが見たいです!!