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篝火

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#婚約破棄
霞花怜
911
(このままにしたくない)
膝を抱えたまま、柊吾はぎゅっと奥歯を噛み締めた。
気まずさに耐えかねて、互いに何も言わないままフェードアウトしていくのは絶対に嫌だった。
四年間、母の介護と「朝倉奏」という過去の亡霊に縛られ、狭いボロアパートの中で息を潜めて立ち止まったままの自分が、せっかく繋がった温もりから目を背け、また何も言えずに「ただの隣人」へと後退してしまうのは、それ以上に耐え難い。
これ以上、流されるだけの自分でいたくはなかった。
柊吾は意を決して、畳の上に放置されていたスマートフォンを手に取った。液晶が青白く光り、薄暗い部屋の中で彼の顔を照らし出す。
LINEを開き、トーク履歴の上部に固定された『黒瀬瑞樹』の名前をタップした。
指先が情けないほど強張り、汗ばんでいる。キーボードを表示させたものの、最初の一文字がどうしても打てない。
『先日は本当にすみませんでした』――いや、これではあの生々しいキスの記憶をわざわざ掘り返して、相手に居心地の悪い思いをさせるだけだ。
『最近、お仕事お忙しいですか?』――取って付けたような社交辞令は、かえって距離の遠さを強調してしまう。
文字を打ち込んでは消し、別の文案を考えてはまた全削除する。画面を睨みつけながら、同じ動作を何度も何度も繰り返した。心臓の鼓動が耳の奥で激しく打ち鳴らされ、呼吸が浅くなっていく。
(……っていうか、なんで僕から誘おうとしてるんだ! 「忘れてください」って背中を向けて逃げたのは向こうなのに!)
脳内で猛烈なセルフツッコミが吹き荒れた。傷つきたくない気持ちと、あの日の醜態に対する羞恥心がぐちゃぐちゃに入り混じり、頭がおかしくなりそうだ。相手からすれば、真昼間から一人で悶えていた上に、突然誘ってくる男なんて気味が悪いだけかもしれない。拒絶される光景がリアルに脳裏をよぎり、指先が凍りつきそうになる。
けれど、このままじっと殻に閉じこもり、相手の出方を待つだけの臆病な自分に戻ることの方が、何倍も、何十倍も恐ろしかった。もしここで何も行動を起こさなければ、瑞樹は二度とベランダに出てこないかもしれない。あの優しい笑顔も、自分を包み込んでくれた体温も、すべて幻のように消えてしまうのだ。
(怖いけど……でも、嫌だ)
柊吾は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。震える親指を画面に置き、迷いが生まれる前に一気に文字を並べる。
『あの……もしよかったら、今度どこか一緒に行きませんか』
これ以上推敲したら、二度と送れなくなる。
そう直感した柊吾は、目を強く閉じながら、勢いよく送信ボタンを押し込んだ。
軽い送信音が鳴り、吹き出しが画面の右側に表示される。
その瞬間、全身の血の気が引くような猛烈な後悔の波が押し寄せてきた。
(送っちゃった……! 本当に押しちゃった……! なに考えてるんだ僕、空気読めないにもほどがあるだろ、絶対引かれた……!!)
パニックに陥った柊吾は、熱を持ったスマートフォンを放り出すように布団の上へ投げ捨てた。そのまま布団へダイブし、枕を抱え込んで両手で頭を抱え、小さく身を縮こまらせる。布団の端を蹴り飛ばしながら、一人でじたばたとのたうち回った。
既読がついたらどうしよう。数時間放置された末に「すみません、忙しくて」と丁寧に断られたら、自分はどんな顔をしてこのアパートで生きていけばいいのか。最悪のシミュレーションばかりが頭を埋め尽くしていた――まさにその刹那。
ピコン。
静まり返った部屋に、軽快な通知音が響いた。
「……っ!?」
柊吾の動きがピタリと止まる。
心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃を受け、恐る恐る布団から顔を上げた。投げ出されたスマートフォンの画面が、淡く点灯している。
(まさか……違う。ニュースの通知とか、アプリの広告だ……)
自分にそう言い聞かせ、恐る恐る手を伸ばす。震える手で端末を拾い上げ、画面を覗き込んだ。
そこには、送信してからまだ十秒も経っていない自分のメッセージの横に、くっきりと『既読』の二文字が表示されていた。
そして、そのすぐ下――まるで最初からそこに用意されていたかのように、新しい吹き出しが滑り込んできていた。
『もちろんです。どこに行きたいですか?』
「……即返信……」
張り詰めていた肺の空気がすべて抜け、掠れた声が口からこぼれ落ちた。
あまりの早さに、目の前の文字が現実のものとして認識できない。「忘れてください」と言い残したあの日から、あれほど頑なに距離を置いていたはずの男だ。スタンプも絵文字もない、けれど迷いも戸惑いも一切感じさせない、あまりにも真っ直ぐな肯定の言葉。まるで柊吾からの連絡を、画面を開いたまま待ち構えていたかのような速さだった。
(……もしかして、黒瀬さん……ずっと、待ってた……?)
自分を拒絶して遠ざかっていたのではなく、柊吾が自分から踏み出してくるのを、一歩引いた場所でじっと待っていたのではないか。
そう気づいた瞬間、心臓が跳ね上がり、カッと耳の奥まで火がついたように熱くなった。胸の奥底で、張り詰めていた感情が一気に沸騰していくのがわかる。
「参ったな……」
誰に聞かせるわけでもなく、赤く染まった顔を掌で覆いながら薄暗い部屋に落とした呟きは、生ぬるい夏の夜の空気に溶けて消えていった。
コメント
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寺島あおいです🌷 柊吾くん、ついに動きましたね…!「送信ボタンを押すまでの葛藤」「押した直後の後悔」「即返信に驚く様子」、どれも本当にリアルで、読んでいるこっちまで息を止めてしまいました。特に「参ったな…」の締めくくり、あの温かい諦めというか、照れくさそうな安堵感がすごく伝わってきて、胸がじんわりしました。瑞樹さん、ずっと待ってたんだなって思うと、もう二人の未来が楽しみで仕方ないです!次が気になります〜!