コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
心の中の冒険の果て、心の中の友達を、心の中の牢獄で見出し、助け、感謝され、愛される。
少女は友達に微笑みかけ、友達は少女を抱き締める。
激しく肩を揺り動かされて、ユカリは目覚める。ある集落のある納屋の中で黴臭い干し草をかき集めてユカリとベルニージュは眠っていた。
「鶸座が昇る時刻だよ。起きて、ユカリ」
ユカリは自分でもよく分からない言葉を呟きながら伸びをして、目を擦り、あくびをし、「おはよう」と言って、干し草を掻き集め、目を閉じる。
「ユカリ!」と叱ってベルニージュがユカリを引っぱたく。
「起きます起きます。もう交代の時間なの?」
「違う。もう起きる時間。さあ早く」とベルニージュは急かす。
もう叱られるまいとユカリはそそくさと準備をする。身を起こし、干し草を掻き集め、ベルニージュの視線を感じ、干し草を放り出し、ベルニージュとレモニカに贈られた外套を整え、合切袋を肩にかけ、ユビスの美しい銀灰の毛並みを撫でる。
数日前にヒデットの街を囲む丘にたどりついた時、一日がかりでユビスを洗うと、その長毛を長年覆っていた汚れはみるみる内に落ちて、本来の銀灰色の妖しげな輝きを取り戻したのだった。
ユカリは自分の仕事を褒めてもらおうとベルニージュとレモニカを待っていたのだが、ヒデットの街と北の方角で元型文字の光が放たれた。慌てて二人の元に、街の中心部に建立されている神殿へと向かったが、人々の騒ぎの中にいたのはベルニージュだけだった。その間、魔導書の気配を感じることはなかった。
事情を聞き、自らを責めるベルニージュを慰めつつ、ユビスに跨って馬車の走り去った方角へと急ぎ、噂をたどってここまでやってきた。しかしこの集落でクオルの手がかりは失せてしまった。
二人と一頭は静かに納屋を出て、澄み渡った深い深い冬の星空を見上げた。大地より古い無数の星々、神も倦み飽きることなく愛を向ける渦巻く銀河、時の流れよりも雄大で威厳に満ちた星雲、最も偉大な魔法使いでもほんの僅かしか知ることのできない神秘が冬に支配された無知蒙昧な人の野原を覆っている。
ユカリの知る星座も沢山あるが、目的としているのは冬の星座の一つ、鶸座だ。
それは禁忌文字の【明晰】と同じ形であり、魔導書の衣の詩においても”星座を共にすくいあげ”と対応している。
ようやく鶸座を構成する星々が全て見える季節が訪れたのだった。
「夜遅くにどうしたの? ユカリ」とグリュエーが囁く。
「星が必要なんだよ。レモニカを救い出すためにね」とユカリは白い息を吐いて答える。
「星をどうするの?」
「星をどうにかするわけじゃないよ」
普通はそんな大それたことをしたりしない。ユカリは月を見上げ、月はユカリを見下ろす。
二人の少女はすっかり寝静まっている夜の集落を静かに進み、この集落唯一の井戸へとやってくる。少し地面を掘り下げられた所に大きな井戸がある。とても大事にされていることがその立派さと清潔さから分かる。
井戸の元へ降りていくと周囲にたむろしている冷たい空気に鳥肌が立つ。ユカリは縄に結ばれた桶を井戸の底に降ろし、底へたどり着いた感触を得て引き上げる。
桶に湛えられた透き通った水を覗き込んでユカリは言う。「共にって、どうすればいいと思う?」
ベルニージュは両手を出して言う。「二人の手で大きな椀を作ればいいんじゃないかな。ともかくとにかく試して試して試すんだよ」
二人は向かい合って出した手と指を隙間なく絡め、椀を作ると桶の中の氷のような水に手を突っ込み、悲鳴をあげながら持ち上げる。四つの手の椀の中の冷たく透き通った水の揺らめく水面に星空が映し出される。星座をすくい上げる方法はこれくらいしか思いつかなかったのだ。
「何も起きないけど?」とユカリは冷たい痛みに歯を食いしばりながら言葉を漏らす。
「そもそもこれは鶸座をすくえてるの?」と言ってベルニージュは水を零さないように顔を傾けて、鶸座が反射して見える角度で覗き込んだ。
その瞬間、二人のすくった水が白く強く神々しく光る。ユカリは慌てて、視線をぐるりと巡らせて、もう一つの光を探す。
魔導書の衣の光を東北東に見出す。想像していたよりも想像していた方向とずれていた。距離も思いのほか遠い。
「ユビス。またお願い。今度は追いついて欲しいなあ」とユカリが声をかけると、待ってましたとばかりに毛長馬は鼻を鳴らす。
「誰にものを言っているのか。我が脚に踏めぬ影なし」
二人は急いでユビスに跨り、ユカリが手綱を握り、寒い冬の夜を寒風浴びて疾走する。世話になった集落に挨拶できないままに飛び出て行く。冬になって一層実りとは無縁になった荒野を長い毛を棚引く友は駆ける。
いつの間にか何かの加護を失ったユカリは唇を震わせて呟く。「【明晰】、星を掴む、星、手、覇王、鶸の安息、頭上の奇跡、囚われ人の知恵。どう? 合ってる?」
「うん」と一言だけベルニージュは答え、この厳冬に走る馬に跨る寒さを少しでも凌げる魔術に取り掛かる。
ユカリは言葉数の少なくなったベルニージュを想うが今はそっとしておくことにする。
この禁忌文字の光にクオルが気付けば移動を始め、移動中だったなら向かう方角を変えるだろう。どちらへ行くかは分からない。とにかく急がなくてはならない。
追われる身の者がまっすぐこちらに来ることはないだろう、その思い込みによってレモニカを攫われてしまった。ユカリは後悔し、ベルニージュはとても後悔していた。魔導書の衣が奪われたことで自身の念に苛まれていたベルニージュを追いうちする形でレモニカが攫われ、さらに自身を責めていた。
ベルニージュの推定では工房馬車の最高速度よりもユビスの方がはるかに速い。ただしユビスにも体力の限界はあり、工房馬車を引く馬のような蜥蜴だか蜥蜴のような馬だかについて詳しくは分からない。生き物のようなので永遠に走り続けることはないだろうけれど、という根拠のない希望にすがるしかない。
ユカリは、本当に工房馬車に追いつけるのか不安になるが、口には出さない。追いつかないわけにはいかない。
クオルがレモニカを攫った理由についても二人は何度か話し合った。クオルは以前からレモニカに興味を抱いていた。しかしベルニージュは、以前にクオルに対してレモニカの呪いの見解を話したという。それが、クオルが強行に出た原因ではないかとベルニージュは考えていた。単なる興味以上にクオルの何らかの研究に資する呪いなのだろう、と想像していた。
ベルニージュにどのような言葉をかければ慰めになるのか、ユカリには分からなかった。
ユカリは考えながら話す。「どれくらいで着くかな?」
ベルニージュはすぐさま答える。「発光した地点までなら夜明けまでにはたどり着くよ。クオルは移動しているだろうけど」
「寝ていて気づいていないかもしれないよ?」とユカリは希望的観測を述べる。
「かもしれないけど、そうじゃないかもしれない。それに仮にそうだとしてもワタシたちのすべきことは変わらない。ただ追うだけだよ」
「まあ、そうだね」とユカリは同意する。
だけどそうではない、とユカリは頭の中で言葉にする。自責の念は足を引っ張る。その言葉に不思議な実感があった。
かといって、追いつくための具体策がない現状は自責の念よりも具体的に厄介だ。