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錆色の扉を叩き中へと入る。大旦那様はこちらに背を向け庭を眺めている。紺色の髪はほとんどが白くなり、体も一回り小さくなられた。
「この先、娘の身に何か起きれば全て大旦那様の指示だと決められましたよ。私もろとも殺すそうです」
大旦那様は外に向け声を発する。
「病死もか?」
はい、と答える。病死に見せる毒など大旦那様なら持っているだろう。考えていた選択肢の一つが消えてしまった。
「ゾルダークの繁栄を望むならば、娘には何もしないほうがよろしいでしょう」
「狂いおって」
そのとおり、狂ってしまわれた。若い娘と出会い感情を持たれた。ハンカチを自ら洗う公爵家当主などいないだろうに。
「ゾルダークの財産目当てだとわからんのか」
訂正したほうがいいのだろうな。しかし、信じないかもしれない、心臓によくないかもしれないが誤解は解いたほうがいいか。
「報告では娘自身が購入したものに、目のつくほど高価な物はないとありましたでしょう?それにハンク様のお顔が気に入っていると仰っていましたよ」
「馬鹿を言うな。そんなことあるか」
信じなかったか、無理もない。私も疑っている。相当な手練れならぼっちゃまを騙せるが、普通の令嬢としか報告が上がっていない。
「大旦那様の目で確認してみてはいかがです?」
ぼっちゃまが若い娘と話しているところなど、死ぬまでに見てみたいものだ。
「断る」
ならば一人で行くかな、後悔はしたくない。見るに値するかもしれない。
「あの世へ行く前に私は見てきます。大旦那様には私が直接報告いたします」
この年で楽しみができるとは長生きはするものだ。
辻馬車が二台用意されていた。連れてきた騎士達は馬に乗ると言ったが、体力を回復、温存し、夜営地から日の出と共に出立すれば休憩を入れても明るいうちに着ける。そのためには騎士達にも休息を命じ馬車に乗せた。馬車の周りを数名の使用人が馬に乗りついてくる。オットーの言う通り、夜営になる。
「ハロルド、眠れ。顔が酷いぞ」
騎士三名はもう一台の馬車に乗り、俺はハロルドと共にいる。
「本当にカイラン様を殺す指示をされたのですか?」
「ああ」
あの秘薬を飲ませることは、ある意味殺すことになるだろう。いくら媚薬を盛っても子が宿らんのなら、奴は役立たずで気がふれて死ぬだけだ。同じことだ。
「俺は狂っているように見えるか」
ハロルドにはあれの子を導かせる。このくらいで怯まれては他の者を用意せねばならない。
「いいえ、知らされてはいなかったので確認いたしました。大旦那様に偽りを仰っていると思いましたから」
俺は嘘は言わん。あれには誰が近づいたか、年寄の子飼いは多いだろうな。警告ですらあれを不安にさせてしまう。
「あれの産む子はお前が導くんだ。無理ならば早く言え」
ハロルドの細い目が開かれる。導くには年が離れすぎているが。
「お前の後継も見繕え、度胸と冷静さ忠誠心の厚い者を複数の中から見定めてもいい。貴族出でなくとも孤児でも優秀な者を選別するんだ。若くても目についたら候補に入れろ。金ならいくらでも使え」
「かしこまりました。しかし旦那様、女児の可能性もあります」
ハンクは頷かない。男が生まれると確信がある。王家に金髪碧眼が必ず出るように、ゾルダークに女の誕生の記録がない。数世代は子が一人のみも多い。あの年寄も後妻は娶らずにいた。あれには何度も孕ませたいが、ゾルダークの血が許さなければ叶わないだろう。家系図を見るにゾルダークの男は子に興味が無いのか、血を外に出すのを厭うたか、増やそうとしなかった。ただ記載がないだけで処理されているのならわからんが、記録ではそうなっている。俺があれに子種を注ぎ続け、歴史を変えてみるのも面白いな。
「男だろうよ」
ハロルドは解せない顔をしているが、過去の記録や家系図の話はソーマから伝わればいい。
休め、と命じ、自身も目を閉じる。明日にはあれの元へ戻れる。
花園の散歩以外、部屋からは出ないようにした。サムと話してから特に動きもなく、誰か近づくような気配はないけど、気は抜けない。
カイランが部屋を訪れ、共に紅茶を飲もうと誘われ断る理由もなく話したいこともあると思い承諾した。私は隣に座るカイランに紅茶を勧める。私は果実水を飲む、最近は紅茶より果実水が飲みたくなる。
「父上は馬車の中かな」
事実を伝えてもいいのよね?伝えるなとは聞いてないもの。
「閣下は馬で向かわれたわ」
カイランは私に振り向き驚いている。当主が自ら馬に乗って遠出などしないものだ。なぜ止めなかったと気になるでしょうね、教えてあげないけど。
「もう着いてるわ」
予定外の事態になっていなければ、すでにゾルダークにいる。
「老公爵様はどんな方?」
カイランは考えて話し出す。
「父上よりは話すけどあまり好きにはなれない。人を見下している感じがするよ」
傲慢な方なのかしら。ハンクは独善的だけど傲慢ではないわね。
「馬で行ったのか、そんなに離れたくないか」
カイランの一人言には答えないでおく。子が生まれるまで時はある。一度、老公爵にハンクをどう育てたのか聞いてみたかったのに、聞ける感じではないわね。ハンクに聞いてもちゃんと答えてくれない気がする。
私が願わなければ、歪な関係にはならなかった。厄介な孫嫁と思われて当然ね。老公爵の一声で私なんていなくなってしまうわ。もしそうなったらハンクが心配ね。何をするかわからない。会いたい、あの大きな体に抱き締められたい。後ろから腹を撫でて欲しい、安心するのよ。
カイランが私の頬を拭う。泣いていたようだ。
「どうした?」
「…妊婦は精神的に不安定になりやすいってライアン様が言ってたわ、きっとそれよ」
ハンクに会いたくてなんて言えないわよ。私が耐えなくては。直ぐにハンクは戻るわ、四日以内と言ったもの。
「ハインス姉妹は君に危害を加えなかったんだね?」
加えようとはしたんじゃないかしら、あの針に毒が塗られていればね。ただの脅しで刺すこともあるのだし。もし、毒が塗ってあったならジャニス様に刺さったのよね、何もハインスから聞こえてこないのなら遅効性か、私に与えるなら堕胎系。自業自得ね。
「ええ」
「ソーマから僕は夫の勉強をしたほうがいいと言われたよ」
私は笑ってしまった。ソーマがそんなことをカイランに言うなんて、ゾルダークの教育が不安になるわ。カイランはもう二十なのよ、これは参考にしなくてはならないわね。
「そうね、カイランは夫失格よね」
つい、本音が出てしまった。閨もできない、ドレスも宝石も贈らない。劇には連れていかない。令嬢達はそんな夫に耐えられるのかしら。教えてあげたら狙われないのに、ゾルダークの秘密の一つに入るわね。私は微笑みながらカイランに謝る。
「ごめんなさい。ソーマは貴方に間違ったことを言った?」
カイランは泣きそうな顔で頭を横に振る。
「夫の勉強なんてしなくてもできるものだと思っていたわ。案外難しいことなのかもしれないわね。カイランには向いてない、そう思えば納得だわ」
意地悪を言っているわけではないのよ。向き不向きがあるということ。私はカイランの手を叩く。
「無理に夫にならなくていいわ。カイランの負担にはなりたくないの。貴方はゾルダークの後継として頑張っているわ。大変なことだと理解してる。贈り物をくれなくても貴方が私の夫よ、それは変わらないの。あれもこれもと考えていたら倒れてしまうわ」
理解してくれたかしらね。貴方に夫を求めるのは、外に出たときなの。あまり悩んで欲しくない。ドレスが必要なら自分で揃えるわ。宝飾品もゾルダークには沢山ある、観劇には一人でも行ける。でも夜会には夫婦で参加するの、その時はちゃんと笑顔で夫婦よ。子に興味が持てないならそれでいい、憎く見えてしまったら、心の中に留めてくれたらそれでいい。カイランに多くは求めないわ。
「考え込んでは駄目よ。動けなくなるわ。ソーマも忠告が遅すぎるわね。婚約時代に教えていれば変わっていたかもしれないのに」
カイランまで不安定にならないで欲しいわ。
「僕は君と共に生きたい」
「夫婦は共に生きるものよ」
また閨の話なら聞きたくないけど、断れないと言ってあるし、寝室へ入るなら止められないわ。カイランの手を両手で包み温める。
「こうしていると幸せだと思うんだ」
そうなのね。こうしているだけなら何の問題もないわ。
「時が合うなら一緒にこうして紅茶を飲みましょう?それがカイランなりの夫の役目の一歩よ、勉強したいならね」
普通なら婚約時代にするものなのよ。頷くカイランに言わなければいけないことがある。
「扉の鍵を開けたのね、ソーマが持っているはずよ?」
握り締めた手が震え黒い瞳が潤み出す。ハンクに似ている顔が泣きそうだわ。
「妻と喧嘩をしたから閉められたと説明したら宝石屋が開けてくれたんだ」
宝石屋はそんな技術を持っているのね。特殊な鍵穴でもないし、案外簡単なのかもしれない。小さな声で、すまないと謝っている。
「開けたの?」
答えない、開けたのね。いつ?夜はハンクが来るから開けないわよね、昼間?
「キャスリンが悪阻で父上と共に眠らない日があっただろ、その時に一度だけだよ。君は窶れてしまって心配だったんだ」
本気で心配していたのね。昨日部屋の確認をしていたダントルが見つけたからまだよかった。ハンクならいろいろ問い質しそうだもの。
「私は眠っていたのね」
「そうだよ。暗くてよく見えなかったけど」
怖いわよ。
「ソーマにお願いして鍵を借りるわ」
頷いてくれてよかった。カイランは夫だもの入っても妻は断れない。ただハンクは嫌がる。
「また頼んでは駄目よ。寝室へ入りたいなら言ってちょうだい。断らないわ」
暗闇で立たれるよりいいもの。
「共に眠りたい」
入室を断らないと言ったのよ。でもカイランは夫なのよね。我が儘を言い出して、困ったわ。
「今ジュノが寝室のソファで寝ているのよ。老公爵様を警戒しているの。居室にはダントルが待機よ。寝台で眠るだけよ」
ハンクは怒るかしら。カイランは嬉しそうに頷くわね。
「閣下には一緒に怒られてね」