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夜の校舎は、昼間とは別の顔をしている。
窓の外はもう真っ暗で、体育館のライトが遠くで白く光っている。
部室の蛍光灯は一つだけ、消さずに残してあって、
机と譜面がその光の下で薄く影を作っている。
夜になると、音って昼間よりずっと近く、身体に直接届く気がするんだ。
ギターを抱えて部室に入ると、若井はすでにアンプをいじっていた。
コードをあれこれ繋いで、音作りに余念がない。幼馴染のくせに、
こういう真剣な顔をすると兄貴みたいに頼りになるから困る。
「おう、来たな。飯は食ったか?」若井はにやりとしながら、
僕のギターを受け取る手つきでチューニングを始める。
「サンドイッチだけ。練習後に買い出しする予定」って答えると、
若井は「よし、じゃあ今日は俺の奢りでコンビニぱーりーだ」と得意げに笑う。
僕はその言い方に文句を言いたくなるけど、結局それが嬉しくてニヤける。
幼馴染ってのは、こういう些細なことで距離が詰まるんだ。
音楽室に移動すると、そこには涼ちゃんが既にいて、
譜面台を整え、フルートの管を軽く拭いていた。
金髪が蛍光灯にちょっとだけ艶めいて見える。
涼ちゃんは僕らより三つ年上だけど、ここの空気にすんなり馴染んでいる。
穏やかな「僕」の調子で、「今日は何時までやる?」と聞いた時、僕は知らずに安心した。
「八時半までには片付けて、そこから通しで三回だ」若井が言う。
スケジュールを聞くだけで胸が少し締め付けられる。文化祭本番まで日がないんだ。
最初の合わせはぎこちなかった。
僕のストロークが少し重すぎて、フルートの息遣いと噛み合わない。
涼ちゃんは首をかしげることもなく、静かに譜面をめくっては、
「もっと前の小節で息継ぎが入ります」と控えめに指摘してくれる。
言い方は優しいのに、その指示は的確で、音にすっと効く。
若井が横で「おい、そこはもっと軽く。指先で歌うんだよ」と言ってくれる。
幼馴染だから言える言葉。
照れ臭さと有難さが混じって、僕は深呼吸して弦に触る。
若井の指が、肩を軽く叩いてくれた。それだけで、また弾ける気がする。
練習は細かい積み重ねの連続だ。
フルートの旋律とギターのアルペジオを何度も何度も擦り合わせる。
サックスが入るところ、打楽器が強調するところ、
全部で一つの絵を描くように音を重ねていく。
音の隙間を探して、呼吸のタイミングを合わせる。
音楽って、会話に似てると思う。
言葉のないやり取りが、いつの間にか意味を持ち始める。
途中、若井がふと笑って言った。
「お前、ソロのとこでちょいちょい遊び入れるな。少年っぽくなるからやめろ」
「少年っぽいって何だよ。幼馴染の特権だろ?」
彼のからかいに、僕は思わず笑って返す。
声を出すと胸の奥がほぐれる。
若井はそんな僕を見て、妙に満足そうに頷いた。
涼ちゃんはその様子を見て、にっこりと笑う。
彼の笑顔は案外油断させる毒を持っていて、こちらも自然に肩の力が抜ける。
合間に彼が差し入れてくれた冷たい麦茶を飲むと、体の内側が涼しくなった。
彼はいつも気を配る。年上だからってだけじゃない、根本的に人を見る目が柔らかい。
八時前、僕らは疲れのせいかテンポが乱れ始めた。
連続通しは体力と集中力を奪う。
若井が「よし、ちょっと休憩」と言い、
部室の外階段に座って夜風に当たることにした。
コンビニの袋が一つ、若井の手にある。
中身はおにぎりとカップスープ、あとプリン。
安っぽいけど、夜練にはこれで十分だ。
「お前、手つき雑になってたぞ」若井がぽつりと言う。
言い方は軽いけど、そこに含まれる厳しさは昔と変わらない。
僕は俯いて、指先の皮の感触を確認する。
練習で出来ると嬉しくて、出来ないと悔しい。
そういう単純なループで自分を仕上げていくのが、僕のやり方だ。
涼ちゃんが缶のスープを手渡してくれる。
受け取ると、彼は少し遠くを見ながら、
「大森くん、最近よく集中できてるね」と言う。
褒められると恥ずかしいけど、嬉しい。
幼馴染の若井に褒められるのとは違う、
こういう穏やかな承認は、また違った色をしている。
短い休憩のあと、僕らはまた立ち上がり、最後の通しに臨む。
疲労感はあるけど、体が求めるのはもう一度「音を出すこと」だった。
何度も重ねるうちに、徐々に音の継ぎ目が美しく繋がり始める。
最後のサビで、フルートが高く透明な旋律を描き、
ギターのコードがそれを柔らかく包み込む。
若井のソロは痛快で、不意に笑いが込み上げる瞬間もある。
通し終えた瞬間、部室に静かな拍手が起きた。
互いに疲れきった顔で見合う。
涼ちゃんが「すごく良かった」とぽつりと言えば、若井が得意げに胸を張る。
僕は小さく息を吐いて、幸福感が胸を満たすのを感じた。
片付けをしながら、若井がふざけて言う。
「文化祭当日、俺らのバンドTシャツで客を釘付けにしてやろうぜ。な、大森?」
「まずは演奏で釘付けにしろよ」って僕はツッコむ。
二人でふざけ合えるのが、ずっと続けばいいなと心の底で思う。
夜風が窓から入ってきて、譜面が少し震えた。
金属と木の匂い、汗の匂い、インクの匂いが混ざり合って、
これが今の僕らの匂いなんだと実感する。
幼馴染の若井、優しい涼ちゃん、
そして僕――三人で作る時間は、確かにここにしかない。
帰り道、若井がふと真面目に言った。
「お前、無理するなよ。俺、いつでもフォローするから」
幼馴染のそれは軽口の裏にある本気の約束だ。
僕は彼の言葉に素直に頷いた。
涼ちゃんは少し遅れて笑いながら僕らに追いつき、
「じゃあ明日も七時集合ね」と穏やかに告げる。
その声は夜の静けさに溶けて、胸に残った。
ベッドに入ってからも、今日の音が耳の裏で鳴り続ける。
光は消えて、また飛んでいくけれど、
今夜掴めた何かは小さく光り続けている気がした。
僕はギターを抱えたまま、ゆっくりと目を閉じた。