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「ただいま」
その言葉を言うのはひどく久しぶりな気がした。
もしかしたら毎日何気なく使っていたかもしれないが、今の凌空にとってその言葉の重みは昨日までの比ではなかった。
何がどう変わったかはわからない。
もしかしたら何も変わっていないのかもしれない。
しかしこれから変えて行ける気がする。
そんな予感が凌空をリビングへと導いた。
「ーーーー!」
いちばん初めに異変を感じ取ったのは嗅覚だった。
「うわ、何の匂い、これ……?」
鼻を突く臭い。
食べ物が焦げた臭いだけではない。金属が溶けた匂い。
火は消えている。
凌空は換気扇を付けると、部屋を振り返った。。
陽は傾いて、リビングも薄暗いのに、カーテンも引かれていなければ、照明もついていない。
何かあった?
何があった?
凌空はダイニングに足を踏み入れた。
「………!!母さん!!」
そこには大きく曲がったダイニングテーブルと、後ろに倒れた椅子。
そして、晴子がフローリングに倒れていた。
「ちょ……大丈夫!?」
凌空は駆け寄ると、晴子の頭を起こそうとした。
「う……!」
晴子が苦しそうに呻く。
なんだ?急病か?それとも……
「どうしたんだよ!?母さん!!」
「……痛い……!」
晴子がくぐもった声で言った。
「痛い?どこか痛いの?何があったの!?」
「痛い……。腰が……」
「腰?」
凌空は晴子の腰を見つめた。
外傷はない。じゃあ中身だろうか。
凌空が外出した時、家には輝馬がいた。
輝馬が自宅に帰ってから転んだのだろうか。
「待って、今、救急車を……!」
それとも兄にまず電話してきてもらった方がいいだろうか。
それか健彦を頼ったほうがいいだろうか。
凌空が立ち上がろうとすると、晴子はその腕をつかんだ。
「―――抱き起して、ソファに座らせて。そしたらタクシーを呼んで病院に連れて行って……!」
タクシー?この状態で?
凌空は目を見開いた。
「お願い……!!」
晴子は潤んだ目で凌空を見つめた。
もしかしたら―――。
晴子をこうしたのは、家に残してきた輝馬かもしれない。
そんな予感が脳裏をチラついた。
もしそうだとしたら。
こんなにされてもまだ兄を慕う母を、
こんな目に合ってまで、兄をかばおうとする母を、
可哀そうに思う。
「……大丈夫なの?行ける?」
低く聞いた凌空に、晴子は潤んだ目で頷いた。
◇◇◇◇
大腿骨にヒビが入っていた。
診察した医師に晴子は、ダイニングチェアに座ろうとして転んだのだと必死に説明していた。
(そんなことあるかよ……)
凌空は半ば少し呆れながら、苦笑いする母を見下ろした。
待合室に戻ると、痛み止めの注射を打たれ、コルセットで腰を固定された母は、少しは楽になったようだった。
「大丈夫?俺に寄っかかってもいいよ」
晴子は素直にうなずき、「ありがとう」と言った。
「凌空は、背が高いのね」
寄りかかる晴子が弱々しくそんなことを言った。
そう。自分は背が高い。
高校に上がる前から輝馬より高かったし、今は健彦よりも高い。
(……今さら気づいたのかよ)
凌空は胸の内で笑った。
これからは、自分がいくらでも、醤油の瓶でも洗剤のストックでも、上棚に入れてやる。
腰に体重がかかると傷むのか、晴子が寄りかかってくる。
柔らかい体が温かい。
凌空はそのぬくもりに軽く目を閉じた。
そのとき、
「休みでも夜中でもいいから、気になる時はまたいつでも来てくださいね」
看護師が奥の扉を開けた。
凌空は晴子の視線につられて振り返った。
(……産婦人科か)
「今が踏ん張りどころだから!ママ、頑張って!」
看護師が両手でガッツポーズを作っていて、夫と思しき男に支えられている女が大きく頷いた。
「ありがとうございます。またお腹が張ったら連絡しますね」
微笑んだ顔が、一瞬凌空からも見えた。
目の大きな美人だ。
年齢は晴子よりも少し若いくらいだろうか。
「…………?」
寄りかかっていた晴子の身体が、小刻みに震え出した。
(……母さん?)
瞬きもしないで、その2人を見つめている目には、涙が溜まっていく。
(――知り合い?)
凌空はもう一度2人を振り返った。
「荷物、俺が持つよ。車持ってくるから、正面のベンチで待ってて」
男がふとこちらを振り返った。
凌空は目を見開いた。
「――母さん」
凌空は晴子に背を向けたまま言った。
「あの人たち、知り合い?」
すると、晴子は凌空に寄りかかったまま言った。
「若いときにアルバイトお世話になった弁護士さんと、大学時代の同級生よ」
晴子の言葉に何もかもが繋がった。
20歳の晴子。
彼女は大学の同級生が付き合っていた男にかなわぬ恋をした。
そして男もまた、若くて綺麗な母を求めた。
晴子は妊娠。
しかし親友と結婚するはずの男とは無論結ばれるわけはなく、
慌てて父を前妻から奪った。
(……先生。そうか。弁護士も先生だよな)
凌空はふっと笑った。
男は輝馬とよく似ていた。
そしてその目は、凌空の目と同じだった。
◇◇◇◇
それからたっぷり30分以上待たされてから、会計を済ませた二人は、再びタクシーに乗り込んだ。
「痛み、平気?」
のぞき込むと、
「薬が効いてるみたい」
晴子は弱々しく笑って、視線をすっかり暗くなった窓の外に向けた。
今なら、わかる気がする。
彼女が親友の旦那に叶わぬ恋をして、
その息子を身ごもり、健彦を利用して、輝馬を生み育てたこと。
一方、健彦との子である紫音のことは、どうしても愛せなかったこと。
さらに関係を続けた先生との子である凌空の目を潰して誤魔化そうとしたこと。
納得は出来ない。
しかしきっと、理解はできる。
納得と理解の間にある溝は、これからゆっくり埋めていけばいい。
だって自分たちは、
曲がりなりにも家族なのだから。
凌空は晴子の手を握った。
「………」
晴子も握り返してくる。
生まれてから17年間、
初めて母を愛おしいと思った。