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地の底の国まで揺するような激しい地響きが届き、次いで衝撃がリトルバルムの街を襲う。塵芥が飛び交い、人々の上に降り注ぐ。
セビシャスに近づくほど奇跡の力が発揮されるという話だ。死は免れても怪我は免れないかもしれない。ユカリはグリュエーの風に出来る限り広場を防護してもらう。
そうして耐え抜いた後、戦場のような轟きが消え失せ、町が静まり返る。リトルバルムは救われた。
ユカリは今になって気づく。もし、セビシャスのこの奇跡が魔導書ならば、ユーアに憑りついていた魔導書も似たような力があるのかもしれない。
つまりただ、それだけで力を発揮し、近づいたものにその力を分け与えるような。
そしてその発想はセビシャスの奇跡とは別の、この街で人々の口に上っていた噂へと繋がる。
ユカリは変身を解き、合切袋から魔導書『口笛吹きの乙女の伝承』を取り出す。ミーチオンの荒野で出会ったユーアに憑りついていた魔導書だ。憑りついていない状態のこの魔導書に最大限の力を発揮させるとすれば、一つしかない。
「セビシャスさん。もしかしたら記憶を取り戻せるかもしれません」
セビシャスの濡れた瞳と目が合う。その瞳はユカリの窺うような表情を見、その手に持つ羊皮紙を見る。
「何か不思議な実感がある。そうあるべき、というような確信だ。記憶を失い、故郷に焦がれ、長くグリシアンを彷徨うた。果てに隕石から人々と街を救った後であれば、それが神の給わる褒美だとしても驚くことはない。その言葉が本当ならば是非にと願いたいところだが」
「ただし」と言ってユカリも真っすぐに見つめ返す。「セビシャスさんの奇跡が失われる可能性があります。そしてもしもその奇跡が魔導書ならば私はそれを頂戴いたします。例えそれが神に背く行いであろうとも」
セビシャスは唐突に出てきた魔導書という言葉に少なからず驚いているようだったが、ほどなくして受け入れた。
「奇跡が惜しくないと言えば嘘になろうが、我が失われた遠い故郷に誓って約束しよう。その力は君の自由にするが良い」
「ありがとうございます」そう言ってユカリは一息に羊皮紙をセビシャスの胸に押し付ける。
すぐにその力は発揮される。セビシャスは頭を押さえ、再び欄干に捕まり、見開いた目をぐるぐると動かす。隕石の起こした地響きに比べれば、とても小さな唸り声を発する。
「嗚呼! 奇跡だ! これこそが奇跡だ!」そう言ってセビシャスは欄干から飛び出さんばかりに身を乗り出す。「これこそが我が故郷、リトルバルム王国だ!」
現れ出でた魔導書をすかさずユカリは手に取り、呟く。
「リトルバルム、王国?」
「ありがとう。ユカリ。今度こそ救えたんだ。私は、この街を」そう言って、欄干にすがりつくように立っていたセビシャスは膝から崩れ落ちる。
「セビシャスさん!?」
「気にしてくれるな、ユカリ。歪んだ理が正された。それだけだ。一度は失った我が故郷を今一度救えた。それだけで我が魂は清められた思いだ」
セビシャスの肌が干からび、髪が抜け落ちていく。
「セビシャスさん! そんな! 何で!?」
セビシャスの体を支えようとユカリは膝をつくが、その体からはみるみる重さが失われていく。
「《時》は万人に平等ということだ、ユカリ。民であれ、王であれ、誤魔化し、身を隠し、逃れようとも、彼らがその勤めを忘れることも諦めることもない。ユカリ。ありがとう。私を救ってくれて」
セビシャスの体は崩れ、涙までもが乾き、骨までもが風化して、砂に還った。その最後の小さな溜息と共に魂は肉体だった砂を抜け出て、流星と共に地平の向こうへ飛び去ってしまった。
「ユカリ」それだけ言って、ベルニージュも床に膝をつく。
「ベルニージュさん」ユカリは声を震わせて、身をわななかせる。「私が、私が、セビシャスさんから魔導書を取り上げてしまいました」
「そうだけど、そうあるべきだよ。誰かがやらなくてはいけないことで、彼が望んでいたことだ。君は彼の死を悲しむだけではなく、彼の願いを叶えたことを誇りに思わなくてはならない」
ユカリはじっと新たに手に入れた魔導書を見つめる。
「その魔導書が彼の奇跡の正体なんだね」とベルニージュが言った。
ユカリは涙を拭って、頷き、震える声で答える。
「はい。ありがとうございます。ベルニージュさん」
「うん? 魔導書を手に入れる手伝いなんて何もしてないでしょ?」
「そうでしたっけ?」ユカリの微笑みもまた震える。「魔導書はともかく、色々と協力してくれたじゃないですか。だから、ありがとうございますで良いんです」
「そうかな。そうかもね。どういたしまして。おっと」と言ってベルニージュは魔導書をユカリから取り上げて、ユカリの合切袋の中に突っ込み、すがるようにユカリの腕を強く握る。
「ユカリさん! セビシャス様は! セビシャス様はどちらへ?」
暗闇の向こう、ずたずたになった血だらけの天幕の向こうからキーツが息せき切ってやってくる。
ユカリはキーツを見上げ、真っすぐに見つめて伝える。
「セビシャスさんはその本来の寿命を全うしたようです」
ユカリのその言葉と、目の前の砂を見て、キーツは事情を察したようだった。
「つまりセビシャス様の奇跡は失われてしまったということですか?」
「はい。その通りです。いったい、セビシャスさんは何者なんですか? 最後に故郷に戻ってきたと仰っていました。リトルバルム王国に」
キーツはユカリの言葉を受けて、納得したように頷く。
「今の今まではあくまで推測に過ぎませんでしたが、おそらくセビシャス様はリトルバルム王国最後の国王に違いありません」
かつて隕石で滅びた王国のことだ。
「その、共和制に移る前の、ですよね?」とユカリはキーツに問う。「そもそも、それって一体何年前のことなんですか?」
「丁度五百年前だよ、ユカリ」とベルニージュが囁くように答える。
「五百年!?」と言ってユカリは再びセビシャスだった砂を見下ろした。
「我々もその可能性を考えてはいましたが、確信には至りませんでした」とキーツは言って、その偉大な王だった砂の前に膝をつく。「あくまでかつてのセビシャス王同様に、王に相応しい奇跡を神より賜り、身に宿した人物ではないか、とそう考えていたのです。我々にだけ遺された伝承によると、かつての都に隕石が墜ちた時、セビシャス王だけは無傷で生還したとのことでした。その後は諸説ありますが、歴史の表舞台からは姿を消しました。センデラの民はその時に生き残り、王の帰還を信じた人物たちの末裔というわけです。そして何度も名前を変えていますが、今の生命の喜び会の前身を結成したのです。その後も、末裔たちはセビシャス王を探し求め、何度かそれらしき人物に接近したこともあったようです。しかし例の呪いによって幾度となく見失い、伝承自体を信じぬ者も増え、生命の喜び会も消えゆくところだったのですが、おおよそ六十年前に再びセビシャス王を見出し、以来王国の復活を夢見て活動してきたのです」
「王国の復活?」とベルニージュが呟く。「それならこの街を一旦更地にした方が良かったんじゃない?」
「ベルニージュさん!」とユカリが叱るとベルニージュは縮こまる。
しかしキーツは鷹揚に笑うだけだった。
「まさにその通りです。実際の所、今の時代にいくら想像力豊かな伝承を教わったところで、誰一人としてかつての王国を故郷と思える者などいなかった。今の、このリトルバルムこそが私たちの故郷なのです。だからこそ、セビシャス王を呪いから解放し、故郷に戻って来ていただきたかったのです」
キーツの優し気な視線が街に注がれている。ユカリも目で追うと、輝かしい朝日が開かれた門から差し込んでいる。
塔の下の方でリトルバルムの市民が騒いでいるのが聞こえる。再び泣きわめく者もいれば、喜び歌をうたう者もいるようだ。
ベルニージュが呟く。「炎の巨人から隕石が救ってくれたと思ってんだよ、きっと」
そう言われてユカリは少し可笑しくて笑ってしまう。
「さて、先にこの騒ぎをどうにか収めなくてはなりませんね」そう言ってキーツは立ち上がる。「お二人も良き頃合いに降りてきてください。まだまだ感謝を表しきれていませんからね」
キーツを見送って、ベルニージュと二人きりになるとユカリは非難するような調子で呟く。「騙したようなものです」
ユカリは座ったまま合切袋から魔導書を取り出す。
「見せびらかすようなものでもないでしょ」とベルニージュは言った。「ねえ、何て書いてあるか読めるの?」
「はい、ちょっと待ってください」
『彷徨える王セビシャスの物語』
大河の畔に月も羨む美しさのリトルバルムという都があった。第一の英雄と称されたセビシャス王の手による都だ。
月の陰るひと月に一度の夜には美を愛する神々が訪い、人の身にありながら人ならざる業を行ったセビシャス王を褒め称えたという。
しかし、時の誘いにも応じず、ますます美を募らせる街に、知らぬ者のおらぬ魔女が嫉妬の炎を燃やし、暗黒の空に希い、星を落として王国を滅ぼした。
それでも、賢く強かなセビシャス王は心折れることなく、生き残った者たちと手に手を取り合い、かつての都さえ羨むような美しい国を興そうとした。
嫉妬の炎の消えぬ魔女は、生き残ったセビシャス王に三つの呪いをかけた。
それは胸を裂くような望郷の呪い。足の折れるような彷徨の呪い。永遠に苦しむ不死の呪い。
かくしてセビシャス王は今もどこかで故郷を求めて彷徨っている。
「現実には違う結末になったわけだ」とベルニージュは呟く。
ベルニージュの言葉でユカリの頭の中に渦巻いていた想像が一つにまとまる。
「それが鍵なのかもしれません。前の魔導書も現実に似ていて、でも現実は少し違う結末に至りました」
ユカリは手に持つ羊皮紙に書いてあることで見逃しがないか確認する。
「じゃあ、一つお願いしてもいいかな、ユカリ」
「はい、喜んで」
ユカリは記憶を取り戻す魔導書を構える。しかし足元の砂を見て、少しだけ躊躇する。
ベルニージュは落ち着いた調子で言う。「折角だからね。心配しなくても私は魔導書なんて身に宿してないから大丈夫だよ、たぶん」
「そもそも私じゃなくても良いはずです。試してみましょう」そう言って、ユカリはベルニージュから少し身を離し、二人の間の床に記憶を取り戻す魔導書を置いた。
「ちょっとだけ緊張するね。ほら、記憶を取り戻すなんて初めてだからさ」ベルニージュは両手をこすり合わせる。「触れるだけで良いんだよね。じゃあいくよ。記憶が戻ったらワタシの勝ちね」
「記憶が戻ったら私にも喜ばせてくださいよ」
ベルニージュは勢いよく叩きつけるように羊皮紙に手を置いた。
ユカリは恐る恐る尋ねる。「どうですか?」
「ワタシの負け」
ユカリは上手く言い表せなかったが、それはとんでもないことのはずだった。
「ベルニージュさん。魔導書の魔法が太刀打ちできないってことは、その記憶喪失の原因は……」
「うん。私の知る限りでは」ベルニージュもまた神妙な表情を浮かべている。「神を除けば、魔導書の他にないね」