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昔の時代の人が描いた絵画って、なんか不思議な感じしますよね。

転生もの。
























「朝」という概念は、今の太宰治にとって、ただの記号に過ぎなかった。

名門私立高校、高等部二年生。成績は常に学年首位。端正な容姿と、どこか浮世離れしたミステリアスな雰囲気は、否応なしに周囲の耳目を集める。だが、太宰本人は、世界に対してひどく希薄な手応えしか感じていなかった。 何をしても、何を見ても、自分の一部がどこか遠い場所に置き去りにされているような、あるいは最初から部品が足りないパズルのような。そんな空虚な感覚を飼い慣らしながら、彼は「完璧な優等生」という仮面を貼り付けて生きてきた。

そんな彼が、修学旅行で訪れたのは、国内でも有数の規模を誇る近代美術館だった。

引率の教師が語る退屈な美術史を右から左へ流しながら、太宰は一人、集団から離れて展示室を歩いていた。冷房の効いた静謐な空間には、油絵具の匂いと、何十年、何百年という時間が凝固したような独特の重みが漂っている。

そこで、彼は「彼」に出会った。

近代に入って再評価され、瞬く間に世界的な名声を得た孤高の画家、Chuya-Nakahara。 その特設コーナーの最奥、順路の最後を締めくくるように展示されていた一枚の絵。

太宰の足が、根を張ったように動かなくなった。

その絵は、キャンバスのサイズこそ小ぶりだったが、放つ熱量は他の静物画の比ではなかった。 描かれているのは、一人の男。 それは、紛れもなく「太宰治」だった。

だが、そこには決定的な違和感があった。 絵の中の男は、今の太宰が着ている紺色のブレザーではなく、古びた喪服のような黒い外套を羽織っている。そして何より、その顔の半分、細い首筋、さらには袖口から覗く手首に至るまで、痛々しいほどの白を湛えた包帯が幾重にも巻き付けられていた。

「……なんだ、これ」

太宰の声が、静かな館内に微かに響いた。 鏡を見ているような感覚。しかし、鏡よりもずっと「自分」を突きつけてくる。 筆致は荒々しく、まるで呪いを塗り込めるかのような執念が感じられた。それなのに、描かれた男の瞳だけは、どこか遠く、救いを求めるような、あるいはすべてを諦めたような透明な光を宿している。

太宰は震える指先で、絵の傍らに添えられたキャプションを辿った。













作品名:『無題(あるいは記憶の中の知己)』 作者:Chuya-Nakahara(1881-1912)

静物画、特に「ワインボトルとグラス」の連作で知られる中原が遺した、生涯唯一の人物画。彼はその生涯の大部分を異国で過ごし、一度も日本へ戻ることなく客死した。 本人の日記によれば、この作品について次のような記述が残されている。

「ふいに脳裏をよぎった男を形にした。どこで会ったか、誰であるかは知らない。だが、描かずにはいられなかった。この男を描いている間、私の心臓は不快なほどに脈打ち、喉の奥には常に苦い酒のような渇きがあった。私はこの男を、心の底から憎み、そして、死ぬほどに愛していたような気がするのだ」

























「……冗談だろう」

太宰は乾いた笑いを漏らそうとして、失敗した。 心臓が不快なほどに脈打つ。それは、百年前の画家が感じたという感覚と、恐ろしいほどに同期していた。

中原……ナカハラ……。 その名前を口の中で転がした瞬間、脳裏に雷鳴のような衝撃が走った。 記憶の断片が、鋭い硝子の破片となって意識を切り裂く。

黒い影。硝煙の匂い。 赤い光を纏って空を駆ける背中。 「おい、太宰」と呼ぶ、低くて、乱暴で、けれど誰よりも信頼していたはずの響き。

「…………っ」

太宰は激しい眩暈に襲われ、膝をつきそうになった。 今、目の前にあるのは、ただの古い油絵ではない。 それは、時を超えて自分を見つけ出すために放たれた、執念の「標(しるべ)」だった。



























修学旅行から戻った太宰は、それまでの虚無感が嘘だったかのように、一つの目的に没頭し始めた。 「Chuya-Nakahara」という画家の生涯を、狂ったように調べ上げたのだ。

画集を買い込み、彼が好んだというワインと同じ銘柄を(もちろん、まだ飲むことはできないが)眺め、彼が過ごしたという異国の都市の地図を広げた。 調べれば調べるほど、中原という男の人生は「欠落」に満ちていた。 彼は天才と呼ばれながらも、常に何かに飢えていた。キャンバスに描かれるワインの赤は、まるで誰かの血を代用しているかのように鮮烈で、けれどその主(あるじ)はどこにも描かれていなかった。

あの人物画を描き上げた直後、中原は三十代という若さで命を落としている。 まるで、その男を描くことだけが、彼がこの世に転生した唯一の目的であったかのように。

(君は、私を待っていたのかい?)

太宰は夜の図書室で、画集の中の「自分」を指先でなぞる。

(私を誰かも知らないと言いながら、こんなに苦しそうに描き残して。君の愛し方は、相変わらず不器用で、ひどく重いね、中也)

そう、確信していた。 自分はかつて、太宰治という名で、中原中也という男と隣り合って生きていた。 そこには包帯が必要なほどの傷があり、砂色のコートを靡かせる理由があった。 そして、今の自分に足りない「部品」の正体は、間違いなく、この絵を描いた男そのものだった。

太宰は、名門校の生徒としての生活を完璧にこなしながらも、内側では常に「彼」を探し続けていた。 いつか、どこかで。この街の雑踏で、あるいはどこかの路地裏で。 オレンジ色の髪をなびかせ、不機嫌そうに眉を寄せた「彼」が、自分を「太宰」と呼ぶ瞬間を。
























季節が巡り、太宰は高校三年生になった。 周囲が進路に騒がしくなる中、彼はある一つの公募展に足を運んでいた。 それは、若手芸術家の登竜門とされる、学生主体の絵画展だった。

なぜそこへ行こうと思ったのかは分からない。ただ、胸騒ぎがしたのだ。 美術館であの日感じた、あの「不快な拍動」が、朝から止まらなかった。

会場は現代的なギャラリーで、若さゆえの荒削りな感性が爆発した作品が並んでいた。 その中を歩き、突き当たりに差し掛かった時。

「…………あ」

太宰は、今度こそ息を止めた。

そこに展示されていたのは、小さな風景画だった。 夕暮れ時の、どこにでもあるような海辺の景色。 けれど、その空を埋め尽くす「赤」を見た瞬間、太宰の視界は真っ白になった。

あの美術館で見たワインの色だ。 血管を流れる血のような、狂おしいほどに鮮烈な、命の赤。 その絵の右下に、なぐり書きのようなサインを見つけた。

『C.Nakahara』

太宰は周囲を振り向いた。 心臓が、耳元で鐘をつくように激しく鳴っている。 いる。ここにいる。 百年前、自分をキャンバスに閉じ込めた男が。自分を置いて先に逝ってしまった、あの不器用な相棒が。

ギャラリーの片隅、パイプ椅子に座って気怠そうにスマホをいじっている少年がいた。 小柄な体躯。学校の制服は着崩され、首元には安っぽいチョーカーが巻かれている。 そして何より、帽子を脱いだその頭には、燃えるようなオレンジ色の髪。

太宰は、一歩ずつ、彼の方へ歩み寄った。 近づくにつれ、相手もこちらの気配に気づいたらしい。 少年は不機嫌そうに顔を上げ、太宰と視線がぶつかった。

青い瞳。 美術館の絵の中で、自分を見つめていたあの情熱を、そのまま宿した瞳。

中也と呼ばれた少年は、太宰の顔を見るなり、目を見開いた。 持っていたスマホが、指先から滑り落ちて床に音を立てる。

「……は?」

少年の声は、夢の中で聞いたものよりも少し高く、けれど紛れもなく、太宰の魂を震わせるあの響きだった。

太宰は立ち止まり、優雅に、けれどひどく悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「やあ。君の描く赤は、相変わらず趣味が悪いね。中也」

中也は椅子から立ち上がり、信じられないものを見るような目で太宰を凝視した。 その震える唇が、何度も言葉を探し、やがて、喉の奥から絞り出すように。

「……テメェ…………太宰……なのか?」

その瞬間、世界に色が戻った。 太宰がずっと感じていた「欠落」が、目の前の少年の存在によって、音を立てて埋まっていく。 百年前、キャンバスに刻まれた「呪い」は、今、この瞬間に「再会」という名の祝福へと変わった。

「誰かは知らない、なんて嘘を書いた罰だよ。中也。君を今日まで探すのは、結構骨が折れたんだから」

太宰がそう言って一歩踏み出すと、中也は顔を真っ赤にして、それでいて今にも泣き出しそうな表情で拳を握りしめた。

「うるせぇ……! あの絵を見たのかよ……っ。俺だって、あんなもん描きたくて描いたんじゃねぇ! 毎日毎日、夢にクソムカつく包帯野郎が出てくるから、追い出すために描いただけだ!」

「ふふ、追い出すどころか、私を呼び寄せてしまったね」

太宰は、中也の目の前まで行くと、その小柄な肩に手を置いた。 温かい。 絵の具の匂いでも、ワインの冷たさでもない、確かな人間の体温。

中也はその手を振り払おうとしたが、結局、力なく太宰の制服の袖を掴んだ。 「……遅ぇんだよ、手前は。……何十年待たせやがった」

「ごめんよ。でも、次は逃がさない。君が私をキャンバスに閉じ込めたように、今度は私が、君をこの人生に閉じ込めてあげる」

太宰の声は、かつてのどの言葉よりも甘く、そして重かった。

美術館に飾られた『誰かの絵』。 それは、迷子になった二人の魂が、再び出会うための地図だった。 もう、包帯で傷を隠す必要はない。砂色のコートで孤独を纏う必要もない。

名門校の優等生と、荒削りな絵を描く少年。 二人の新しい物語が、百年の時を超えて、今、この静かなギャラリーから動き始める。

「……とりあえず、そのニヤケ面をどうにかしろ。殴りたくなる」 「おや、愛の告白かな?」 「死ね! 永遠に死んでろ!」

罵り合いながらも、繋いだ視線は決して離れない。 窓から差し込む午後の光が、二人の影を一つに重ねていた。

その光景は、どんな名画よりもずっと、鮮やかで、残酷で、そして美しかった。





























それからの二人は、まるで失った時間を取り戻すかのように、常に一緒にいた。 太宰は名門大学の法学部に進み、中也は美大へと進学した。 中也の描く絵は、太宰と再会してから劇的に変化したと言われている。 それまでの「飢え」を感じさせる赤は影を潜め、代わりに、どこまでも深く、吸い込まれるような「生」の色彩がキャンバスを彩るようになった。

中也の個展が開かれるたび、会場には必ず、最高級のスーツを身に纏った端正な男が姿を見せる。 彼は誰よりも長く一枚の絵の前に立ち、時折、困ったような、けれどこの世で最も幸せそうな微笑みを浮かべるのだ。

「中也。今回の新作も、私の魅力の半分も表現できていないよ」 「あぁ!? テメェの顔なんか描き飽きてんだよ。文句があるならモデル料返すから帰れ!」

そんな喧嘩さえも、彼らにとっては至上の幸福。 かつて、異国で客死した男が最後に夢見た「誰か」は、今、目の前で確かに呼吸し、自分を呼んでいる。

中原中也が遺した唯一の人物画は、今もあの美術館の奥に飾られている。 多くの人々がその絵の前で足を止め、そこに描かれた男の「悲しみ」と、描いた者の「執着」に思いを馳せる。

けれど、誰も知らない。 その絵のモデルと、その絵の描き手が、今、この街のどこかで、誰よりも強く、激しく、互いを求め合いながら生きていることを。

百年前、中也の日記に書き残された最後の言葉。 それは、公開されていない一節があった。


『もし、もう一度会えるなら。その時は、包帯なんて巻かせない。この男の目から、孤独の影をすべて拭ってやる。それが、私の本当の、生涯唯一の願いだ』


その願いは今、この空の下で、確かに叶えられている。

太宰は、中也の描く新しいキャンバスの余白に、自分の名前を書き込むようにして笑った。 「愛しているよ、中也。今度こそ、心中なんて誘わないから」 「……当たり前だ。死ぬまで俺のモデルやってろ。逃がさねぇぞ、太宰」

二人の物語は、キャンバスの上ではなく、終わりのない現実の中で、どこまでも続いていく。

【中太集】千変万化型:有象無象 〜黒い重力と虚無〜

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