テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
#ファンタジー
#ダーク
王都アーデルハイムの夜は、深く、変わらず静かだった。高い石造りの窓の外に広がる王都の街並みは、すでに生活の灯りを落とし始めており、遠くの通りから巡回する衛兵の規則的な足音と、時を告げる鐘の低い余韻だけが微かに風に乗って聞こえてくる。
騎士団本部の奥底にあるこの執務室は、そんな外界の喧騒から一段と切り離された場所にあった。重厚な黒檀の扉と厚手の絨毯が、あらゆる音を吸い込み、完全な静寂を保っている。
磨き上げられた執務机の上で、銀の燭台に灯る炎がゆらりと揺れた。その淡い光の輪の中で、アルベルトは静かに羽根ペンを動かす。王家の紋章が透かしで入った、分厚く上質な羊皮紙。国王ローデリヒが直々に目を通すであろう公式の報告書だ。そのための厳格な書式、無機質な言い回し、余白の取り方に至るまで、すべてが王国の規律で縛られている。彼はそこに、微塵の迷いもない流麗な筆致で文字を刻み込んだ。
――対象、ソラス。
――森内部にて、異常な魔力現象を確認。
――追跡を試みるも、視界・感覚ともに著しく阻害され、これ以上の追討は不可能と判断。
――白燿剣は撤退。著しい人的損耗なし。
――当該地域は、引き続き厳重な警戒を要す。
事実だけを無機質に並べ立てた、極めて冷静で事務的な文面だ。嘘は書いていない。だが、真実のすべてでもない。ペン先が一瞬だけ止まり、羊皮紙の上に黒いインクがわずかに滲む。アルベルトはその小さな染みをじっと見つめ、ひどく重い息を静かに吐き出してから、再び続きを書こうとした。
その時、分厚い扉が控えめなリズムで叩かれた。
「……入れ」
重い音を立てて入ってきたのは、第三騎士隊長のラヴィニアだった。血と泥に塗れた実戦用の甲冑ではなく、騎士団の簡素で清潔な室内着に身を包んでいる。彼女の片腕には小さな木盆が抱えられており、その上には湯気の立つカップと、夜食らしき簡単な軽食が載せられていた。
「……起きていらしたんですね、アルベルト」
部屋に入るなり、重苦しい紙とインクの匂いに気づいたのだろう。彼女の海緑石の瞳が、自然と机の上の羊皮紙へと落ちる。アルベルトはペンを置き、硬かった表情をわずかに緩めて微笑んだ。
「気を遣わせたな」
ラヴィニアは机の端に盆を置き、湯気の立つカップをアルベルトの手元へと寄せた。ハーブティーの温かな香りが、冷え切ったインクの匂いを優しく中和する。彼女はすぐにはその場を離れなかった。視線が、机上の羊皮紙に縫い留められたまま、動かない。
「……報告書、ですか」
「ああ。陛下直覧のな」
二人の間に短い沈黙が落ちる。燭台の火が、ぱちり、と小さな爆ぜる音を立てた。しばらく炎の揺らぎを見つめてから、ラヴィニアはひどく慎重に口を開いた。
「先日の件……王国の公式記録では、何と呼ばれるのでしょう」
問いかけは、夜の空気に溶けるように穏やかだった。アルベルトは少し考えるように視線を天井へ向け、淡く笑う。
「記録上は……地名で呼ぶのが妥当だな。”ソラスの尖塔周辺異常事案”といったところか」
ラヴィニアは、小さく息を吐いた。
「ソラスの尖塔……」
その響きには、割り切れない哀しみと、わずかな感傷が混じっていた。アルベルトは何も口を挟まず、彼女の言葉の続きを待った。
「狂乱する村人たちと、自律する人形の兵と、我々騎士団……あんなにも様々なものが混ざり合った地獄のような光景、初めて見ました」
無惨に踏み荒らされた麦畑。半ば崩壊した家屋。氷と木と土でできた兵たちが、魔力供給を絶たれてなお、ただ一つの命令に従って騎士たちと刃を交え続けていた光景。そして、その狂気の渦の中心に、折れた剣と奪った槍を握りしめて立っていた自分自身の血まみれの姿。ラヴィニアは、痛みを思い出すように視線を落とす。
「……あの広場に立って、初めて……自分が本当は何を守る側の人間なのか、全く分からなくなってしまって」
それは誇り高き白耀剣の副官としての言葉ではなく、一人の脆弱な人間としての、静かな告白だった。アルベルトは、すべてを包み込むように穏やかに頷く。
「当然だ。あの最中、明確な正しさなど誰の目にも見えはしない」
ラヴィニアはゆっくりと顔を上げた。その目が、再び机上の羊皮紙へと向く。
「森の奥へ……お一人で入られましたよね」
それは問いではなく、確認のようだった。
「入った」
「それで、無事に戻っていらした」
「ああ」
また、短い沈黙が降りる。ラヴィニアの視線は、紙の上に記された冷酷な一文にじっと留まっていた。
――これ以上の追討は不可能と判断。
彼女はその無機質な文字の羅列を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……”不可能”、だったのですね」
彼女の言葉の裏にある真意を、アルベルトは完全に理解していた。声の震えも、その間の取り方も、すべてが彼に問いかけている。彼は表情を一切変えずに答えた。
「そうだ。俺には不可能だった」
言葉を聞いたラヴィニアは、ほんのわずかに唇の端を上げた。それは安堵の笑みというよりも、深い納得のようなものだった。
「アルベルトが……そう、ご判断されたのですね」
「ああ」
それ以上、彼女は無粋に踏み込まなかった。嘘を問い詰めることも、事実を確認することもしない。ただその場に立ったまま、彼女はしばらく沈黙し、自身の内側にある感情と向き合っていた。
「……少しだけ、私情のためにお時間をいただいてもよろしいですか」
アルベルトは静かに頷いた。
「構わない。座れ」
彼女は勧められるまま向かいの椅子に腰掛けるが、その背筋は刃のようにきちんと伸びたままだった。白耀剣の騎士としての矜持と、ひとりの女としての落ち着かない内心とが、危ういバランスで同居している。
「アルベルトは……お怪我は、本当にありませんか」
「ない。かすり傷ひとつない」
「そう、ですか……」
心底からの安堵の息が、わずかに唇から漏れる。ラヴィニアは視線を膝の上に落とし、細い指先で衣服の布地をぎゅっとつまんだ。
「私……少しだけ、怖かったんです」
「死の恐怖は普通だ。恥じることではない」
「違うんです」
彼女は、強く首を振った。
「私が怖かったのは、敵が未知の存在で強かったからではなくて……アルベルトが、あのおぞましい森の深奥へ、たった一人で入っていく後ろ姿を見たときで」
アルベルトは、手元のカップの温もりを感じながら、黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
「もう二度と、戻ってこないのではないかと……そう、思ってしまいました」
その声は、消え入りそうに小さい。
「王国を守る騎士としてではなく……ただ、その……」
言葉が不自然に途切れる。ラヴィニアは一瞬だけ目を強く閉じ、何かの覚悟を決めるように言った。
「私にとっての大切な人が、もう帰ってこないかもしれないと、そう思ってしまって」
アルベルトの指が、カップの縁でぴたりと止まる。堰を切ったように彼女は続ける。
「それなのに、私は副官としてあの修羅場を指揮し、自警団を抑え込まなければならなくて……アルベルトの心配ばかりしている自分の弱さを、少し、情けなく思いました」
自嘲するような苦笑が混じる。
「でも……それでも、ただ心配でした」
アルベルトは、静かに、ひどく優しい息を吐き出した。
「ラヴィニア」
名を呼ばれ、彼女が弾かれたように顔を上げる。
「心配するな――とは言わない。ただ、俺は、そう簡単には死なない」
いかなる名剣の誓いよりも、その不器用な言い方が、あまりにも自然で、頼もしくて。ラヴィニアの胸の奥が、きゅっと甘く締め付けられる。
「ずるいです、そういうところ」
彼女は、涙を堪えるように小さく笑う。
「私がどれだけ死ぬ思いで心配しても、あなたはきっと、いつもと同じ平気な顔をして戻っていらっしゃるんでしょうね」
「そうだな」
「……ですから、せめて」
彼女は、その澄んだ海緑石の視線を、再び羊皮紙へと戻す。
「アルベルトがご自身で選んだ判断なら、私はすべてを信じます」
一拍、置いて。
「たとえ、それが……騎士の在り方として、少しだけ、道を逸れていたとしても」
アルベルトは目を細めた。ラヴィニアは慌てたように付け足す。
「いえ、決して責めているのではありません。ただ……」
彼女の視線が、どこまでも優しくなる。
「……本当に、アルベルトらしいな、と思っただけです」
冷え切っていた部屋の空気が、少しだけ柔らかく解けた。
「……私、あの赤毛の戦士……ユスティナに、完膚なきまでに叩きのめされました」
視線を机の上に落としたまま、彼女はぽつり零した。あまりに率直な敗北の言葉に、アルベルトは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「らしいな」
「らしいな、ではありません」
ラヴィニアは少しだけ唇を尖らせ、不満げな色を見せる。
「肋骨を何本もやられて、誇りである剣もあっさり折られて、泥の地面に無惨に転がされたんです。あそこまで一方的に敗北を味合わされたのは、本当に久しぶりでした」
その声音には、武を志す者としての確かな悔しさがあるが、不思議と、濁りのない清々しさも混じっていた。
「強かったか」
「はい。とても」
即答だった。
「技量も、判断の速度も、何より一切の迷いがなかったです。あの人、あの極限の状況で、ただの一度も心が揺れていませんでした」
アルベルトが静かに頷き、ラヴィニアは続ける。
「でも……不思議と、悔しさだけではなかったんです」
揺れる炎へと視線が移る。
「泥の地面に倒れたまま、戦場の広場を見ていて。王国騎士と、村人と、魔女の兵と……全部がぐちゃぐちゃに混ざっていて」
小さく息を吐く。
「そのとき、はっきりと分かってしまったんです。ああ、この人は……あのソラスさんという少女を、本気で”守る”側の人なんだ、って」
アルベルトは何も言わずに聞いている。それは敗北の言い訳ではなく、騎士としての魂の気づきを語る、静かな告白だった。ラヴィニアは顔を上げる。
「その後、私が痛みをこらえて立ち上がったのは――王国の騎士として、ではありませんでした」
「何として、立ち上がった」
彼の問いは、ひどく柔らかい。ラヴィニアは少し考え、そして、誇り高く答えた。
「……アルベルトと、同じものを信じて見た、ひとりの人間として、です」
その言葉に、部屋の空気がわずかに震える。アルベルトは、愛おしいものを見るようにわずかに葡萄色の目を細めた。鉄灰色の乙女は恥ずかしげに視線を逸らし、続ける。
「ユスティナが、ソラスさんの前に立ちはだかっていたあの圧倒的な姿が、今も頭から離れません」
「……騎士の、立ち方だったか」
「はい」
ラヴィニアは小さく、しかし深く頷く。その脳裏には、泥に塗れながらも決して揺るがなかった赤毛の戦士の気高き背中が、鮮明に焼き付いているのだろう。
「本人は絶対に否定しそうですけれど」
かつて違う部隊で見た、あのひどく不器用で意地っ張りな少女の顔を思い浮かべ、アルベルトは口元に微かな笑みを滲ませた。だが、その穏やかな余韻は長くは続かない。ラヴィニアは、膝の上で組んだ指先をきゅっと握り締め、少しだけ間を置いてから、ひどく重い口を開いた。
「フラスニイルのことも……聞きました」
その名が零れ落ちた瞬間、部屋を満たしていた空気が鉛のように静かに沈み込む。
「団長からか」
「はい。……死んだ、と」
ラヴィニアの細い指先が、怒りとも悲哀ともつかない感情に震え、机の縁を白くなるほど強く握りしめた。
「団長に勝つための勝ち筋が、確かにあったのに。彼は自ら――その命と引き換えに、それを選ばなかった、と」
アルベルトは、ひどくゆっくりと頷いた。
「彼らしい」
その言葉に一切の迷いはない。ブロンドの髪を揺らして小さく息を吸い込み、彼は静かに目を伏せた。かつての同胞の、不器用すぎる生き様を脳裏で悼むように。
「だから、その悲報を聞いても、私は心のどこかで……深く納得してしまったんです」
ラヴィニアは、潤みを帯びた声を震わせながら続ける。
「あの剣聖が認めるということは……本当に、彼は自身の意志で、その選択をしたのでしょうね」
「ああ」
「団長、今日の夕食から、急激に甘味の数が増えたそうですよ」
彼女はこみ上げる哀しみを誤魔化すように、ほんの少しだけ冗談めかして笑った。だが、その乾いた声も、すぐに寂しげな翳りの中へと消えていく。
「……私は、今でも、あの人がひょっこり帰ってくるような気がしてならないんです」
「確信か」
「いえ。ただの、勝手な願いです」
夜のしじまに溶けていくような、ひどく静かで切実な祈りの言葉だった。ラヴィニアは、ゆっくりと視線を上げ、アルベルトの紫の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「ユスティナも、フラスニイルも……ソラスさんという少女の件で、それぞれの騎士としての重い立場を越え、己の魂に従った選択をしました」
一拍、息を呑む間を置く。
「あなたも、きっと」
彼はその言葉を否定しなかった。ただ、揺るぎない静けさをもって彼女の言葉を受け止めている。ラヴィニアは、自身の無力さを噛み締めるように、ほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「私は、あの広場で……彼らが命を懸けて何かを守ろうとするのを、ただ、何もできずに見ていただけでした」
「違う」
自嘲するような彼女の言葉を、アルベルトは即座に、鋭く強い声で打ち消した。
「お前があの場にいなければ、あの村はもっと壊滅的で、取り返しのつかない状態になっていた」
思いがけない力強い肯定に、ラヴィニアは驚きに目を瞬かせる。
「狂乱に呑まれ、崩壊しかけていた戦線の統制を取り戻したのは、他でもないお前だ。お前があの場所で、理不尽な暴力に対する楔とならなければ、我々騎士も村人も、もっと無意味に血を流し合って死んでいたはずだ」
石造りの冷たい部屋に、アルベルトの低く温かい声が響く。しばらくの間、暖炉の残り火のような優しく温かい沈黙が、二人の間を漂った。ラヴィニアは熱を帯びた視線を伏せ、安堵に震える声で静かに紡ぐ。
「……アルベルトに、そう言っていただけると。剣と共に折れかけていた私の心も、少しだけ救われます」
そして、祈りを捧げるように両手をすり合わせた。
「みんながそれぞれの不器用なやり方で……守りたいものを、守ってしまったんですね」
アルベルトは、深く、ゆっくりと頷いた。机の上の燭台の火が、彼らの密やかな吐息を受けて小さく揺れる。そのオレンジ色の淡い光の揺らぎを見つめながら、ラヴィニアは迷子のような声で低く呟いた。
「弱き人を守る騎士であるはずなのに……どうして、私たちはあんなにも傷ついていた彼女を斬らなければならないのか。私には、最後までどうしても分かりませんでした」
切実な告白に、アルベルトは夜の闇よりも静かに答える。
「分からなくていい」
ラヴィニアが、弾かれたように顔を上げた。
「分からないままでも。俺たちが守れるものは確かにある」
静かな、だが鋼のような決意を含んだその言葉が、涼やかな夜気の中に美しく溶けていった。深い海緑石を映したラヴィニアの瞳と、燭台の炎を受けて紫の火を灯すようなアルベルトの瞳が、ほんの短い間、吸い込まれるように向き合う。彼女は逃げ場のない甘い沈黙の中、その絶対的な視線を受け止めると、夕刻の名残よりも鮮やかな紅が、白い頬にさっと差した。早鐘を打つ己の鼓動が、薄い室内着を突き破って彼に聞こえてしまいそうだった。
たまりかねたように、彼女は座っていた椅子の脚を小さく鳴らし、弾かれたように立ち上がる。唐突なその動きが、二人の間に張り詰めていた透明な糸をぷつりと断ち切った。
「……そろそろ、お暇しますね。遅くまでお邪魔してしまいました」
潤んだ瞳を激しく泳がせながら、ラヴィニアは上擦りそうな声を懸命に抑え、なんとか微笑みを作った。アルベルトはカップに手を伸ばし、温かな湯気の向こうで、すべてを見透かしたような柔らかな微笑みを返す。
「ありがとな、ラヴィニア」
逃げるように重厚な黒檀の扉に手をかけた彼女の指先が、冷たい金属の取っ手の上で、ふと躊躇うように止まった。何かを振り切るように、あるいは、胸の奥に溢れた熱をどうしても置いていきたいと願うように。微かな衣擦れの音をさせて、彼女は振り返る。
「……アルベルト」
「なんだ」
燭台の淡い光が、彼女の海緑石の瞳に浮かぶ薄い涙の膜をきらりと反射していた。平素の騎士として凛と結ばれているはずの唇が、今はひどく柔らかく、綻ぶように微かに震えている。
「ご無事で、本当によかったです」
それは、同志の生還を喜ぶ騎士としての建前ではなく。ただの一人の女性としての、祈るような、飾り気のない本心だった。恥じらいを隠すようにふわりと身を翻し、彼女は今度こそ、音を立てないように静かに扉を閉めた。カチャリ、と銀の金具が落ちる小さな音が、部屋に完全な静寂を連れ戻す。
アルベルトはしばらくの間、彼女の気配と、微かに残るハーブティーの甘い香りが漂う扉を静かに見つめていた。やがて、伏せていた視線を再び机上の報告書へと戻す。羊皮紙に刻まれた無機質なインクは、すでに乾き始めている。彼は再び羽根ペンを取り、残された余白へ、感情を完全に殺した無表情のまま、最後の一文を付け加えた。
――以上、報告終了。
その冷徹で取り付く島もない文字を見つめながら。彼は、誰にも聞こえないほど小さく、けれど、胸の奥底にわだかまっていた重い塊をすべて吐き出すように、内なる空気をそっとほどいた。