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グルテンが過熱されることでパンの香りが立ちのぼる。
それから、バターの深みある芳香。
香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
焼きあげることによって表面が膨張する際に皮が弾け、パチパチと奏でられる音階が耳に心地良い。
パン屋の店内面積の半分を占める厨房。
その内部では翔太がキビキビと動いている。
売り場に通じる扉を半開きにして、そこから首を突っこんで中を見ているのは星歌であった。
「いいニオイ……」
肺をパンの香りで満たそうとでもするかのようにめいっぱい空気を吸い込み、吸い込み……そして、止める。
「………………」
やがて、溜め息がこぼれた。
その目はどんよりと濁っている。
焼きあがるパンの香りに癒されたという表情ではなかった。
行人は戻ってこなかった。
金曜の夜。星歌からそっと身体を離し、まるでコンビニにでも行ってくるかのような素振りで出て行ったきりだ。
自分の部屋なのに戻らないまま、土曜が過ぎ、日曜も過ぎる。
もう今は月曜の夕方だ。
パン屋のバイトが休みの日曜は、家主不在のアパートで一日中待っていたし、土曜だってバイトと買い物で外出する以外はずっと家にいた。
もしも自分が出かけている間に行人が帰って来ていたら分かるようにと思って、玄関扉の蝶番にシャーペンの芯を仕込んでおいたのだ。
ドアが開かれていたら、芯は折れているはずである。
まさか昔マンガで読んだ知識を披露する局面がくるとは思っていなかったのだが、しかしそこまでしたものの行人が帰ってこないという現実を実感するだけに終わった。
拒絶──その言葉が、星歌の精神を苛む。
行人はどこにいるのだろうか。
幼かったあの日、かたくなに凍りついた星歌のこころを見事に溶かした優しい手は、今、他の誰かに触れているのだろうか。
「もう食欲も失せたよ……」
パンの香気を吸い込みまくってから、おもむろにゲップをする星歌。
ジロリと厨房から放たれる視線など気にも留めない。
虚ろな視線を店内に這わせる星歌の思考は、暗いところへ潜っていった。
行人はいつも自分を助けてくれた。
上手くいかない日常の中で、異世界転生を半ば本気で願う自分の話を笑って聞いてくれたのは彼だけだった。
どんなに頼っていたことか──そう思うと、パンの焼ける香ばしい匂いがなぜか鼻にツンときて涙腺を刺激する。
窯をあけて焼きあがったパンを作業台に並べる翔太の真剣な横顔。
星歌は静かに扉を閉めた。
きっと、自分がいるかぎり行人は帰ってこないのだろうと結論づける。
今日は自分のアパートへ帰ろう。
事故物件だろうが構うものか。
もう義弟に頼っちゃいけないんだ。
嫌なことがあるたびに異世界のことを考えるのも、もう止めにしなくては。
幼かったあのとき、行人が作ってくれた星のブレスレットはバラバラになって、今は鞄の底に沈んでいる。