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秋の日暮れは早く、菜月は車内の助手席で、フロントガラスに映る赤いテールランプの川を言葉少なに眺めていた。街の喧騒が遠のき、静かな時間が流れる。ねぐらへ帰るカラスの群れが、橙から深い紺へと移ろう夕暮れの空を羽ばたき、遠くで金星がひそやかに瞬いている。菜月は金星を見上げ、静かに微笑んだ。夕暮れの空は、過去の傷を癒し、新たな始まりを祝福するように広がっていた。湊の隣で、菜月は大きく深呼吸し、生きる喜びを噛みしめた。未来は、すぐそこまで来ている。
「すっかり遅くなっちゃったね」
「そうね」
「多摩さんが心配しているかもしれないね」
「そうね」
菜月の返事は心ここに在らずだ。
(さっきまであんなにはしゃいでいたのに、疲れたのかな)
すると菜月は湊の横顔を凝視しながら、堰を切ったようにその思いをぶち撒けた。
「ねぇ湊」
「なに」
「私と湊、いつになったら一線を超えても良いと思う?」
「え、ちょっといきなりそんな事言われても」
赤信号で湊の足がブレーキペダルをそっと踏んだ。車が静かに止まり、まるで「これ以上進むな」と告げられているようで、菜月の心に微かな切なさが広がった。暗い車内に低いエンジン音が響き、メーターパネルの柔らかな光が湊の口元をほのかに照らす。
「湊、このまま2人で何処か行っちゃう?」
「駄目だよ。ちゃんと父さんや母さんに結婚しますって言わなきゃ」
「良い子ぶっちゃって」
「菜月は、離婚した途端に悪い子になるの」
「だって」
菜月は頬を膨らませた。
「僕だってずっと我慢しているんだから」
「それなら!」
「菜月、父さんと母さんにお願いしてからだよ」
「お父さんやお母さんにお願いして、『いいよ』って言われたらセックスするの!?」
信号機が青に切り替わったが、菜月の発言に驚いた湊の足は、ブレーキペダルに置かれたままだ。湊の、脇の下に汗が滲んだ。
パパーパッパー!
後続車のパッシングがルームミラーに反射し、湊は激しいクラクションの音で我に返りエンジンペダルを踏み込んだ。
「な、菜月がそんな事言うなんて!」
「ビックリした?」
「うん、心臓がドキドキしてる」
「私もドキドキしてる」
「どうしたの、なにをそんなに焦ってるの」
菜月の細い指先が、暗がりで湊のカッターシャツの脇を握った。青の細いストライプが、その爪先でぎゅっと絞られて歪んだ。
(え、ちょっと、ちょっと待って)
黒い革のハンドルを握る左肘辺りに、菜月の白い腕が見えた。
「湊」
車内の静寂を破るように、熱を帯びた菜月の吐息が湊の名を優しく呼んだ。湊は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を感じ、目眩に襲われた。思考回路が一瞬麻痺し、理性が欲望に押し負けそうになり、このまま菜月を連れ去りたいという激しい衝動に駆られた。メーターパネルの淡い光が湊の口元を照らし、赤信号の停車がその衝動を一時抑える。湊は大きく息を吸い、深く吐いて心を落ち着けた。
「あのね、菜月」
「なに」
「僕…なんだ」
両親に2人の思いを伝えなくてはならない。ただその前に、湊は菜月に打ち明けなければならない事があった。
「なに?もう1度言って。聞こえなかった」
「菜月、驚かないでね」
「う、うん、なに?」
「僕、初めてなんだ」
「初めてって、なにが?」
湊は、暗がりでも分かる程に顔を赤らめ、恥ずかしそうに唇を片手で覆っていた。菜月は、驚きのあまり、その横顔を凝視し凍りついた。
「は、はじ、めて?」
「うん」
「初めて」
「そんなに何回も言わないでよ!」
この整った面差し、見栄えの良いスタイルで、26歳になるまで誰ともセックスをした事がないとは、俄かに信じられなかった。
「う、嘘だぁ」
「嘘じゃないよ、菜月に嘘言ってどうするの」
(ど、童貞って事、よね)
「なんで、信じられない」
「だって」
「だって、なに?」
湊は菜月を横目で見ながら声を大にした。
「菜月以外、女に見えなかった!」
「見えなかった」
「うん!」
なにかを閃いた菜月は、シートベルトを伸ばして湊ににじり寄った。
「高校生の時、付き合っていた彼女は!?」
「手を繋いだら気持ち悪かった!」
菜月は指をいち、に、と折り曲げて数えた。
「だ、大学生の時に連れて来た、あの女の子は!?」
「キスしたら鳥肌が立った!」
菜月はこれまで男性に嫌悪感を抱いて来た。それが、まさか湊まで同じだったとは思いも寄らなかった。
(う、嘘でしょ)
菜月は、眉間に皺を寄せた。
「26歳でまだ、なんておかしい!」
「そんな事ないよ!」
「気持ち悪がられるわよ!」
「誰に!」
「うっ」
「菜月は僕が気持ち悪い?」
「気持ちは悪くは無いけど、信じられない、かも」
「こんな事、嘘ついてどうするの」
菜月は言葉に詰まってしまった。
(…)
菜月は、湊に生々しい話題を持ち出して良いものかと思い悩んだが、隠しても仕様がない事だと意を決した。
「わ、私、賢治さんと5回くらいしか、ないの!」
「そうなんだ」
「ううん!4回かもしれない!」
「そんな具体的に言わないで、むかつくから」
「ごめん」
気まずい空気が2人の間にジワリと広がった。
「だから私、上手じゃないの!」
「僕だって初めてだよ」
うーんと唸った菜月はひとつの提案をした。
「じ、じゃあさ」
「うん」
「一線を超えずに練習しない!?」
「練習?」
湊は怪訝そうな顔で菜月を見た。
「まずはパジャマを着たままハグ」
「着たまま、なの?」
「次の日はパジャマのズボンを脱いでハグ」
「ズボン」
「その次の日はパジャマの上を脱いでハグ」
「うん」
「その次は下着のままハグ」
「菜月、そんなの無理だよ」
「無理」
「一緒の布団で寝たら、僕、もう全部脱がしちゃうよ」
(…)
「お父さんとお母さんにはいつ言うの」
「明日にでも」
「じ、じゃあ、それでOKが出たら」
「出たら」
「私が湊の部屋に行く」
湊の喉仏が上下した。
「何時に来るの」
「真夜中の0:00になったら、明日の夜」
「明日の夜」
満面の笑顔になった湊が、菜月に向き直った。
「菜月、あのね」
「なに?」
「ちょっと、ドラッグストアに寄っても良い?」
「薬屋さん?」
しばし考えた菜月の顔は、熟れたトマトのように色付いた。
翌朝、湊は出勤の準備を終え、ネクタイを整えたスーツ姿で座敷に正座した。静かな朝の光が畳に差し込み、穏やかな空気が流れる。茶の間では、郷士が新聞紙を広げ、いつものように朝の時間を過ごしていた。湊は落ち着いた声で郷士に話しかけ、隣には頬をほのかに染めて恥じらう菜月の姿があった。二人の間に流れる信頼と愛は、義理の姉弟だった過去を超え、深い絆に変わっていた。朝食の茶碗を下げていた多摩さんは、不思議そうにその様子をちらりと眺め、何かを感じ取ったようだった。ゆきは静かに立ち尽くし、「とうとうこの日が来たのだ」と息を呑んだ。
「父さん、母さん、話したい事があるんだ」
「なんだ、思い詰めた顔をして」
「良いから座って」
「なんだ」
「すぐ、済むから」
郷士は、何がなんだか分からないと言った表情をして座敷で胡座をかいた。
カコーン
鹿おどしが鳴り響き、郷士は首を傾げた。
「もう一度、言ってくれ」
朝の静かな座敷で、菜月とゆきはふと天井を仰ぎ、床の間に掛けられた掛け軸を眺めた。花器に生けられた竜胆の蕾が、ほのかに萎れていることに気づき、菜月は心の中で「萎れているなぁ」と思った。それでも、湊と郷士の穏やかなやり取りを、二人とも温かく見守った。湊はスーツ姿で正座し、落ち着いた声で郷士と語らう。
「僕たち、結婚します」
「僕、たちとは誰のことかな?」
湊は自分の鼻先と菜月を指差して無言で頷いた。菜月は照れくさそうに頬を赤らめ、正座したその膝に目線を落とした。
「僕、たち」
「うん、僕と菜月」
郷士は眉間に皺を寄せた。
「お前たちはきょうだいなんだぞ、結婚出来る訳がないだろうが」
「民法」
「テレビがどうした」
「民間放送じゃないよ、法律の民法だよ」
「それがどうした」
※民法734条1項ただし書き
「ただし、養子と養方の傍系血族との間ではこの限りではない」
「例外的に、連れ子同士の婚姻は認められるって書いてあった」
「嘘ーん」
「嘘じゃないよ、佐々木に聞いてみて」
朝の座敷に穏やかな光が差し込む中、郷士は突然慌てた様子でスマートフォンを取り出した。佐々木に連絡し、興奮気味に声を上げた。「湊が菜月と結婚すると言っている、結婚できるのか!? それは本当か!?」とまくし立て、大きな溜め息を吐いた。その声は、驚きと期待が混じった複雑な響きを帯びていた。菜月とゆきは静かにその様子を見守り、床の間の掛け軸と萎れかけた竜胆の蕾に目をやる。
「間違いないそうだ」
「でしょう」
郷士は腕組みをして ゆき をジロリと睨んだ。
「ゆき が言っていた”ホテルに泊まった”とはこの事か」
「ま、まぁ。ほほほほ」
そこですかさず、湊が答えた。
「でも、僕たち、まだ一線は超えていません!」
無言。
「まだ」
「うん、まだ」
「今後、超える気がある、と」
「多分、大人だし」
無言。
「確かに大人だが、菜月はどうなんだ」
「そこは自然な流れで」
「し、自然な流れでお前たちは一線を越えるつもりなのか」
無言。
「うん」
「はい」
郷士は慌てて ゆき の顔を見た。
「ゆき 、自然だそうだ」
「まぁ、離婚しちゃいましたし、節度があれば良いんじゃないですか?」
「節度ってどれくらいだ」
朝の座敷に柔らかな光が差し込む中、菜月、湊、ゆきの三人は、それぞれ目の前で親指と人差し指を離し、その距離を示した。当然、三人三様で、指の間隔はまちまちだった。菜月の手は小さく、湊の指は力強く、ゆきの仕草は穏やかで、それぞれの個性が現れる。
無言。
「そう来たかーーーーーーー」
郷士は額をペシっと叩いた。
「そう来たかーーーーーーー」
腕組みをした郷士はしばし考え、湊の顔を見た。
「湊、お前、いつから菜月を好いていたんだ」
「初めて会った時から」
「そう来たかーーーーーーー」
「菜月、お前は」
「初めて会った時から」
「そう来たかーーーーーーー」
郷士は額をペシっと叩いた。
「郷士さん、最初から私、そう言ってましたよ」
「ゆき は気が付いてたのか」
「気が付かない郷士さんが鈍いんですよ」
「にしても、そう来たかーーーーーー」
郷士は額をペシっと叩いた。
「で、いつ結婚式を挙げるつもりなんだ」
「菜月は離婚して100日は再婚出来ないんだ」
「そうなのか」
「再婚禁止期間っていう面倒臭い法律があるんだよ」
湊は眉間に皺を寄せ、ゆき と菜月はコクコクと頷いた。
「じゃあ、来年の1月の中頃か」
「良いの!?」
「良いもなにも、お前たちの中ではもう決まっているんだろう」
湊は菜月を抱き締めあって喜びの声を上げた。
「父さん、ありがとう!」
「び、微妙だな、複雑でよく分からん!」
多摩さんの足音が近付いて来た。
「さぁさぁ、召し上がれ」
座敷テーブルに置かれた大皿には、うさぎの形をしたりんごが盛り付けられ、そこには4本の爪楊枝が刺さっていた。
「旦那さま」
「なんだ」
「来年にはこの爪楊枝がもう一本増えますね」
「そうか」
「そうです、そうです、そうです」
郷士は額をペシっと叩いた。
「にしても、そう来たかーーーーーー」
カコーーーン
菜月と湊の結婚は両親の許しを得た。座敷を出る時、菜月と湊は郷士に呼び止められた。
「赤ん坊はまだだぞ」
「そ、そんな事、分かってるから!」
そこに ゆき が割って入った。
「まぁ、郷士さん。そこは自然に、自然に」
「し、自然に」
「ええ、自然で良いじゃないですか」
郷士は額をペシっと叩いた。
「にしても、そう来たかーーーーーー」
その日からしばらく、郷士は口癖にように『そう来たか』を繰り返し、事務の久保はその度に『何が来たんですか』と聞き返していた。