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カコーン
湊は枕元のスマートフォンを手に取ると時刻を確認し、布団の中でまんじりともせず夜を過ごした。
(菜月が来る、菜月が来る、菜月が来る!)
スマートフォンのアラームのバイブレーター音に飛び上がった湊は掛け布団の上に正座をし、菜月が襖を開ける瞬間を今か今かと待った。
(来ない)
ところが廊下を歩いてくる人の気配が無い。
(来ない)
居ても立ってもいられなくなった湊は畳の上をずりずりと移動し襖を開けた。キョロキョロと廊下を見回して見たが父親の地鳴りの様ないびきが奥の寝室から聞こえて来るだけだ。
(父さんうるさいな、母さん、あれでよく一緒に寝られるよ)
ゆき の聴覚を疑いながら、湊は月の明かりが漏れる廊下を忍足で歩いた。
ギシ、ギシ、ギシ
「…菜月、菜月、ねぇ」
仏間に隣接した菜月の部屋の襖を少しずつ開けると、片脚を掛け布団から放り出し、仰向けで万歳の格好をした菜月が、軽いいびきをかいていた。
(な、菜月)
クォーーーークォーーーー
(寝てるじゃないか!)
賢治の一連の騒動が解決し、無事、離婚届が市役所に受理された菜月は気が緩み、爆睡してしまった。
(約束と違うじゃないか!)
湊は、その寝顔を見ながら襖を閉めた。大きな溜め息を吐いた湊の胃は、シクシクと痛み始めた。
(き、緊張したのかな。僕、ストレス耐性なさすぎだろ)
カコーン
鹿おどしが明け方の空に響き、その音で菜月は目を覚ました。腕で口元に垂れた涎を拭き取ると冷たかった。なにかを忘れている様な気がする。
「アッ!」
スマートフォンを見ると時刻は6:30と表示されていた。慌てて飛び起きた菜月を待っていたのは、洗面所で歯磨きをする不機嫌そうな湊の後ろ姿だった。
「み、みな、湊」
洗面所の鏡の中に、気不味い顔の菜月が、作り笑いをしていた。
「お、おはよう」
「んがんが」
「怒ってる?」
「んが」
「怒ってるよね」
湊は大きく頷くと、青色のコップを掴み勢いよくうがいをして口を濯いだ。そして眉間に皺を寄せ、菜月へと振り返った。
「菜月!」
「は、はい」
「男の純情を弄んだな!僕の時間を返して!」
「ご、ごめんなさい」
朝食の目玉焼きは黄色い涙を流した。
「…」
菜月は、不機嫌な横顔を窺ったが、目の下にクマを作った湊は、黙々と白いご飯を口に運んでいた。
「み、湊?」
ポリポリと瓜の奈良漬けを頬張った湊は、うんともすんとも返事をしなかった。微妙な静けさに多摩さんは困り顔で、『今日はお天気ですね』と声を掛けたが、湊は『昨日もお天気だったよ』と膨れっ面をした。
湊は、賢治の仕事を引き継ぎ、綾野住宅株式会社の社長に就任した。
「なんなんだ、これ、酷すぎる」
賢治が引き起こした杜撰な経営状態を軌道修正するには、少なくとも半年、いや一年は必要だと考えられた。湊は業務にまだ不慣れで、代表取締役の郷士に指南を仰ぎながら、懸命に仕事に勤しんだ。朝の座敷で、菜月とゆきが親指と人差し指でまちまちな距離を示し、穏やかに微笑む中、湊は新たな責任に立ち向かっていた。しかし、この頃から精神的負担が原因と思われる胃痛が続き、鎮痛剤を常用するようになった。ストレスが湊の身体を蝕む一方で、菜月との絆は彼の心を支えた。
「い、痛っ」
「湊社長、また痛むんですか」
症状が重い時は背中も痛んだ。
「久保さん、お水をもらおうかな」
「こんなに鎮痛剤ばかり飲まれて、胃を痛めますよ」
「分かってはいるんだけどね」
額に脂汗をかくこともあった。
「病院に行かれたらどうですか?」
「この書類の山を見てよ、忙しくてそれどころじゃないよ」
「本当に大丈夫ですか」
「精神的なものだから大丈夫だよ」
責任感の強い湊は、久保の心配をよそに、経営の軌道修正を優先し、仕事に没頭した。しかし、身体の違和感、特に胃痛が続くことに気づきながらも、病院を受診することはなかった。鎮痛剤を常用し、精神的負担を堪え続けた。
カコーン
「菜月」
「今日も忙しかったの」
「うん、もうクタクタだよ」
「お疲れさま」
そんな湊の癒しは、菜月との穏やかな時間だった。菜月は、疲れ切った湊の髪の毛を優しく撫でながら、愛おしく抱き締めた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
二人は一線を超える事なく布団を並べ、手を繋いで眠った。湊は、菜月のいびきがうるさい。とその鼻を摘んだが、数日で、もう慣れたよ。と諦めた。
「菜月」
「…なに?」
「初めての夜は、僕の誕生日が良いな」
「それまではしないの」
「…我慢する」
「変なの」
菜月と湊は静かな座敷で抱きしめ合い、そっと唇を重ねた。湊の腕に力がこもり、菜月を強く、しかし優しく抱き締める。その瞬間、互いの心臓の鼓動が響き合い、深い愛が確かめられた。菜月の誕生日まであと一週間、今夜も二人は互いの心臓の音を聞きながら、その日を心待ちに朝を迎える。