「…すうう…」
心臓の鼓動がいつもよりうるさい。窓際にもたれかかって、呼吸を整えて…
深呼吸。目をつむって、抑えるんだ。
(遅いな…)
実際には、全然遅くないけれど。時の進みが異常に遅く感じてしまう。もし、これでメイを手遅れにしてしまったら。メイがおかしくなってしまったら。そのことばかり考えて、手が震え出してしまった。
「やほー、さっきぶり。」
「ぁ…?…ん…」
…メイだ。声まで震え出してしまう。声が裏返るのを必死に抑え、じっと彼の目を見つめる。
メイの目が細まり、ふるふると黒目が揺れた。その無防備な笑い方に、何故か心が安堵してしまう。
「珍しいね、教室来いだなんて」
「話があって」
「…で、話って何?いい話?告白?」
おどけてからかうような口調でそう告げる彼に心を痛める。辛いのを隠して笑わなくていいのに。俺の前で、全部さらけ出せば。
「…悪い話…かもな」
「何かあったの?」
だいぶ俺の心情を察し始めたのか、表情が少し曇る。
ゆっくり息を吸って、落ち着かせてから、本題に入ることにした。
「メイ」
一瞬だけ、俺に何かを訴えるような目をしたメイは、すぐに穏やかな表情に戻る。その目が、一瞬だけの視線が、刃物のように鋭く俺に立てられた気がした。
「俺のことが、好きなのか?」
「ひゅ…」
一瞬にしてメイの顔が強ばる。窓から入る、風のような音。一瞬後にそれが喉から発せられた音だとわかったと同時に、メイの喉からなったものだとわかった。
やってしまった。もうだめだと、一瞬で分かった。禁止区域に入ってしまったような、罪悪感と焦り。背中を汗が伝う。
「…そうだよ。そうだ、その通りだ。……ごめんね、気持ち悪いよね、同性愛者なんて友達にしたくないよね、ごめんなさい、恋なんて、好きになったり、して……」
メイがそっと触れた手首に、無数の赤い線が見える。たくさんの傷だ。引っ掻き傷ではない自傷行為の傷。
…こんな事してたのか。これに、気づくことができなかったのか。なんと情けない。
「え、っあ、……その傷…?」
「これぜんぶ僕がつけた傷だよ。勝手に妄想して、辛くなって…」
「……」
言葉が詰まった。かける言葉もなく、ただ立ちすくんでいるだけ。
…できないよ、無理だ。俺にはこの人をどうにかすることなんて、できない。
「…無理に言葉かけなくていいよ。どうせ、今日で全部終わる。ぜんぶ、ぜんぶ無くなる。……君への想いと君との思い出、全部消すから。」
そんな俺の想いを見透かすように、メイが微笑む。彼の目は少し腫れぼったくて、微かに潤んでいた。
「全部消す、って……」
「…やっぱり、忘れて。…あと、もう関わらないで。」
「え?いや、…嫌だ。なんで……俺はメイと……メイのこと…好きになった、のに……」
いきなり告げられた別れの合図に、今までの感情が抑えきれなくなってしまう。渦を巻く感情に終止符を打つように、メイが口を開いた。
「そうなんだね。」
「そんな…っ、まだ一緒に─」
腹の底から絞り出した感情は、あまりにも小さくて弱々しいものだった。
─なんで俺はいつも、こんな時に声をあげられないんだよ。
「……ごめん。ごめんね。僕の元好きな人に、迷惑かけたくないんだ。…さようなら。もうしばらく戻らない。」
「メイ…!」
「おーい、海音ー。生きてるー?」
「…生きてる」
「あんたさぁ、なんかあったでしょ。クマやばいよ」
「…ん」
雛が俺の髪を一束つまんで、ぴっと引っ張る。正直この痛みすら認識できないくらい、あの日の事を後悔していた。
「…華崎くんとなんかあった?」
「あった」
「…そ。深くは掘り下げないから、かまってちゃんしないでね」
「するわけ…」
(結局、今日もメイはいなかったな……)
やっぱり、メイがいないとなにか物足りない感じがする。あまりに部屋の空気が重く冷たくて、ため息が漏れてしまう。薄暗い部屋の中で、あの時どうすればよかったのかという疑問が渦を巻いていた。
─ね、クロ。僕ね、自殺するならクロと初めて出会った日にしたいな。
「そういえば、今日─」
…俺とメイが、初めて出会った日だ。
“僕の自殺を止めて”という声が聞こえたような気がして、助けなければいけない、という使命感に襲われる。
行かなければ。
「はぁ、……はっ…」
急げ。助けるんだ。まだ救えるかもしれない。動かそうにも上手く動かない足をひたすらに操作し、メイがいるだろうと思われるマンションの5階まで走る。
よく通る大通りを走る車の寸前を。気を抜いたら転んでしまいそうな砂利道を。メイと一緒によくじゃれていた野良猫がいる抜け道を走り抜けて。
幸い、俺は足が速い方なので、10分程で着くことができた。だが初めから全力疾走をしたので、息が上がって肺が痛い。
「…はい…あれ、海音くんじゃない!めいなら部屋に引きこもってるんだけど…」
「はい、メイに用が…げほ、げほっ…」
「やだ、めいのために?どうぞ、入って。」
「メイ!!!」
「くろ…?」
「はぁ、っは…間に合ったか……?」
やっぱり、いた。不自然に一本のロープが吊り下がっていて散らかった部屋のその先、振り向いてこちらを捉える涙を帯びた目は、ふるふると揺れていた。傷が増えて血が滲んでいる手がちらりと見える。ぱっと花が開くように、メイの顔がほころんだ。
「来てくれたんだ!君なら来てくれるとおもってた……よ…」
その言葉を終わらせるのが待ちきれずに、体が動く。
あの小柄な身体をぎゅっと抱き締めたと同時に、視界がぼやける。
「ごめん、ごめんっ……!何も助けられなくてごめん…!辛いはずなのに、気づいてたのに、助けられなくて…!」
ぼろぼろと、目から暖かい液体が溢れだす。今までの想い全部が、止めどなく零れていく。
それに応えてくれるかのように、メイがそっと、背中をぽんぽんと叩く。
「……助けてくれたよ、君は。…えへへ、嬉しいなあ。あったかくて…一人の人に、こんなに愛されてるんだって、僕は生きていいんだって、君に気づかせてもらえた。」
嬉しそうで、暖かい声に包まれる。
ああ、やっとだ。やっと、大切な人を自分の手で助けることができたんだ。
「…助けられた、のか……?」
「うん。助けてくれた。ありがとう……!」
メイの声が震えているのがわかった。泣いているのだ。
ぎゅう、と抱きしめる力が強くなったことと、メイの暖かさを感じる。
「ぅゔ…っ、ひぐ、っ…ひ、ぎゅ…っ」
「…っぐす…」
「……すき。…っ…やっぱり、君のこと……すきだ、っ…もうしねないや……」
抱き合って5分ほど2人で泣いたあと、今自分が何をしているのか気づいて、少し恥ずかしくなる。
「……あ、ごめん…俺ハグなんかして…」
「あ、ちょっと待って。離さないで……」
「え?」
さっきより緩んでいた腕の力がまた強くなり、ぎゅうっとハグをされる。
心地よい感覚を感じながら、耳の後ろ側から、この先もずっと聞くんだろうと思われる声が響いた。
「……僕、今とっても幸せ。恋が叶ったみたいに。でも、クロとは恋人じゃない。……両想いだけどね、もうそこで止めたいと思うんだ。一線を超えちゃ、いけない気がして。だから、この恋はもう終わり。このハグは、両想いのちょっと可哀想な2人として、最初で最後のハグ。これからは、親友以上恋人未満、ってところで、一旦止める。でも……」
メイが俺から離れる。少し肌寒く感じた。
ベランダの端に立って、こちらを見つめるメイ。
それがなんだか、花婿を待ち続けるまだ小さな花嫁のように見えて、とても愛おしく感じた。
「いつか、この恋が普通になるまで待ってて。そしたら、迎えに行くから。
それまで待ってて。いつか絶対……約束してくれる…?」
─そんなこと聞かなくても、するに決まってる。いつかこの恋が、後ろ指を指されることがなくなるまで。ずっと、ずっと。永遠に待っているから。
「約束、だ。それまで誓いのキスはお預けだな」
「……あはは、そうだね」
お互いの手と手が触れる。メイの手は俺よりひと回りくらい大きくて、指がほっそりとしていた。身体は暖かかったけれど、手のひらはひんやりとしている。
その手が愛おしく感じたために、考えずとも指を絡めてしまう。
「…これも、待ってなきゃダメか?」
「どうだろうね…まあでも、今はいいでしょ。今日だけ両想いの2人だから」
「じゃあキスは」
「それはお預けだよ」
「ほらー、早くしてー」
「うるさい…こちとら遅刻寸前で走って来てんだぞ…」
「いやー、長距離弱いと大変だねえ」
俺より少しだけ大きいあの手でぱん、と背中を叩かれる。なかなか力強いなこいつ…
「さ、行こ」
「今日から高校…初めて校門くぐるな…」
「入学式で通ったでしょ。てか周りの目ちくちく刺さるから早く行こ?」
メイはだいたい、表現がかわいい。「ちくちく」という言葉を勝手に反芻して、緊張を和らげる。よし、覚悟を決めるんだ。
「行くか」
「やっと?」
「うるさい」
いつも通りの、少し潤んだ目。からかうようににやけた顔は、いつもより赤くなっている。
恋としてはまだ未完成。でも、まあいい物語じゃないか、と自分に語りかける。ついでに、自問自答も。
─今、幸せか?
(ああそうだ、俺は─)
─幸せだよ!
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
終
制作・著作
━━━━━
ⓐⓦⓞ
いかがでした?無事ハッピーエンドです。
主な登場人物は
【同性愛者:メイ&悪夢に悩まされていた少年:クロ】
でした
8888888888