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「区切りのいいところで休まへん?」
麗は角田が持ってきてくれた6つ入りの小さいブラウニーを一箱、お茶の横に置いた。
前にテレビで紹介されていたたちょっとお高いブラウニーに、麗はにやにやが止まらなかった。
これは絶対に美味しいという確信がある。
「今、行くよ。ん?」
端の方に設置された本棚の資料を読んでいた角田が、棚の下段を覗き込んでいる。
「どうしたの?」
「いや、なんか奥行きがおかしくて。多分、奥になんかあるよ」
「えー? 徳川埋蔵金かな?」
角田が見ている本棚は麗も整理整頓をした時に触った覚えがあった。
だが、その時、麗は違和感を感じなかったので、何だか恥ずかしい。
「もしそうだったら、持ち逃げして二人で南の島にでも逃避行しようか」
角田は多分、ツッコムのも面倒臭かったのだろう。
茶化すような口調ですらなく、その後は黙々と本棚から資料を出していく。
麗も手伝うと、本棚の奥に正面を向けてぴったりと古いノートが何冊も並べられていた。
「何これ?」
麗はそっと一冊を手に取ってみた。
「隠されていたからデザイン画じゃないのかな? 確認してみて。社外秘かもしれないから俺は向こうでお茶飲んどくよ」
「ごめんね。ありがとう」
麗は角田の背中に礼を言いながらデザイン画はこの前見つけたばかりだから、別の何かだろうなと思った。
それは、祖母の日記だった。
日記と言っても何日か連続で書かれている日もあれば、何ヵ月も放置されていることもあった。
だが、その日記は、紛れもなく祖母の人生だった。
綴り始めたばかりの女学生の頃は希望で溢れていた。
こんな服を作りたい、あんな会社を作りたい。子供服を変えたい。人生を、女性を、世界を変えたい。
輝かしい未来が頭の中で踊っていて止まらないという印象だった。
そうして卒業後、仕立て屋での修行期間に入る。
そこでの修行は厳しいもので愚痴ばかりだったが、いつも負けてなるものかという決意で締め括られている。
言葉通り、早々に役職を得たようだ。
更に、そこで、親友となる少女と出会う。そのころの日記には彼女のことばかり書かれていた。
二人でパーラーに行ったとか、彼女がこんなことで喜んだとか、悲しんでいたとか。
そして、独立。
そこから日記に暗い感情が登場し始める。
「子供がいない人が子供服を考案しているの?」と、買い手になかなか信用してもらえなかったり、女というだけで、取引先に馬鹿にされると荒れた字で書かれている。
それでも必死で働いて2店舗目を出したとき、祖母に悲劇が訪れた。
親友の結婚だ。
それで初めて祖母は親友を恋愛的な意味で好き、いや、愛しているのだと気づいてしまった。
そして、祖母は自分が女性しか愛せないという事実に打ちのめされる。
絶対に誰にも気づかれてはいけないという恐怖と悲しみは祖母を変えた。
親友とは二度と会わなかった。
明るく未来への希望に満ちた少女はいなくなり、強烈な指導力を持った女社長へと変わっていく。
陰鬱な日記とは裏腹に事業は成功していき、従業員は増え、工場を建設するための準備を始める。
その時、融資先の銀行から紹介された見合いを祖母は受けた。
相手の印象はしょうもないが邪魔にはならないヒモ男。
銀行家の三男である見合い相手は働いてもいない昼行灯で、甘やかして育てられ、社会に適合できなかった。
そこで、可愛い三男の人生を守りたかった銀行家は融資の代わりにやり手の女実業家の祖母と縁組みさせることにしたのだ。
後ろ楯の大きな夫を得た祖母は一躍躍進する。
順調に店舗を増やし、品質への絶対の自信と画期的なデザインで、他を圧倒してみせた。
時代の変化にも上手く対応し、流行を作り、関西の有名デパート内に店舗を入れ、勝者となった祖母はそこでやっと、お飾りの役職を与えていた夫の存在を思い出す。
愛人の家に居座り、よろしくやっている夫を呼び出し、子作りをし、妊娠した途端、愛人の家に戻した。
つまり、種馬である。
その結果、産まれたのが父だ。高齢出産だった。
子供服の店の社長として産んでおいた方がいいか。あと、子供服を作るときの参考にもなればいいな。
程度の気持ちで妊娠したため、妊娠中もお腹を気遣わず、精力的に働き、陣痛が来るまで会社で部下に指示を出していた。
なのに、何故だろう。
産まれたばかりの息子を抱いた瞬間、祖母は号泣した。
腕のなかにいる、小さな命は激しく自己主張をしていて、離れがたい。
祖母は、この子のために私はこの世に産まれてきたのだと感じた。
愛しくて、ずっと見ていたくて、自分だけのものにしてしまいたくて、それでいて、自慢したい。
息子を抱いているだけで子供服の案が次々と浮かんでくる。
息子に着せたい服が沢山あった。
だから、小学校に上がるまでは社長室に乳母を呼び寄せ、息子を手元に置きながらそれまで以上に精力的に仕事をした。
会社はどんどん成功していき、関西から東京。更に全国へ。
各地の有名デパートのほとんど全てに店舗を作った。
しかし、母親の働く姿を見続けた息子が、仕事の手を止めてくれないのは愛されていないからだと、思い違いをしていることに気づいたのは、息子が小学校高学年の頃。
息子は母親が嫌いだった。
いつだって仕事しか見ていないから。たまに目があっても、そのつぎの瞬間、服を作るために机に向かう。
息子は母親の後ろ姿ばかり見ていた。そう、顔ではなく背中だけ。
本当は目が合えば、にっこりと笑って、この世に産まれてきてくれてありがとう。あなたを愛していると言えばよかったのだ。
時間はなくとも、言葉を使う機会はいくらでもあった。抱きしめる手はちゃんと二本あった。
後悔しても、もう遅かった。
愛していると口に出しても、会社の次にだろうと罵られる。
愛してる、息子との関わり方がわからない、愛してる、信じて欲しい。
以降、日記は事業記録と祖母の悲哀ばかりで埋め尽くされる。
そんな中、大人になった息子が会社に入社してきて、祖母の日記は再び明るさを取り戻した。
だが、すぐに祖母は気づいてしまった。
息子は夫に似ていて、経営者の器ではないことに。
祖母は下積みだと言って、小さい部署に息子を送った。失敗してもいいように。
そして、家柄のいい妻を迎えさせ縁故関係を作ることで、息子を上流階級への伝手を持った特別な存在に仕立て、会社に居場所がない状況に陥らないようにした。
妻を迎えることで爛れた生活を送る息子に落ち着いて欲しかったところもある。
だが、息子は子供が産まれても、変わらなかった。
息子夫妻に産まれた孫娘は利発で、年々賢くなっていく。
祖母は会社を別の人間に継がせようと思っていたし、そのつもりで育てていた部下もいた。
だが、三代目は孫娘に継いで欲しいと、会う度、経営者としての心構えを説いた。
しかし、それに気づいた息子が、俺には何も教えてくれなかっただろうと激怒した。
息子は二代目は自分だと勘違いしていたのだ。
祖母はお前に社長は無理だと諭そうとしたが、「俺よりも会社が大事だから俺に継がせないのだろう!」という息子の言葉を、切り捨てることができなかった。
だから、後継者として育てていた部下を転職させ、息子に株のすべてを譲り、遺言を書き換えた。
祖母は息子に愛していることを信じてもらいたかった。
ただそれだけだった。