「夢」
目を凝らす。
そこは一面、明るい光。歩み進めていくと、影ができる。
「私」以外の誰もいない、そんな世界。
そこで「私」が歩いていた。
長い髪を後ろに流し、顔を俯かせて、ペタペタと。私の歩く場所だけ影ができて、地面の境目がわかる。
それはスポットライトを一人浴びているようでもあり、白い紙の上に小さな人形が立っているみたいにも見えた。そのまま、私の視界は「私」に寄っていく。
「私」は俯いてひたすら下を見つめていた。そこに映るものがあるかのように。
でも、「私」が見つめている場所は、物なんて少しもありやしない。真っ白なだけ。どうして、そんなに下を向いているのだろう。
『………、……ずっと……』
「私」がなにか呟いた。でもその囁きは漏れず、ただ内の中に籠る。聞き取ることもできないほど、小さな声。独り言のようにも聞こえるし、誰かに聞き取ってほしいのかもしれない。
でも、その言葉に力はなくて、ただかすかな音が周囲に落ちていくだけ。
「……っ、……!」
言葉を発しても誰も聞く相手などいないのに、下を向きながら「私」は口を動かしている。どこを目指すわけでもなく歩きながら。
ーーペタペタ、ペタペタ。
足を動かし、進み続ける「私」。
そして私もそんな「私」をずっと見つめていた。俯瞰しているとでも言えばいいのか。「私」しか見る相手がいないから、見つめていると言えばいいのか。
突然バッ、と「私」が顔を上げた。……私を見た? 目と目が合った気がした。
でも、そんなはずはない。だってこれは夢だもの。
ぼやけた意識の中でも、私はこれを夢だということだけは自覚していた。夢の登場人物が夢を見ている私を見るなんて、それは変だ。夢だとしても、変。
『……、…………。…………』
しかし「私」の口がはっきりと動き、何かを伝えようとしている。唇を読んでほしいのか、ゆっくり開閉してパクパクと話す。
何を言いたいの? そう思って、私はふわふわした視覚でそれを見つめる。
……え? と不思議に思いながら、その言葉を理解した時。
ーー光が消えた。
真っ白な世界から光源が一切消え、闇の中。光に満ちた世界から闇に一気に変化したせいなのか、一切何も見えなくなった。視点を定めようにも距離感も分からず、「私」の姿もわからない。
私は突然起きたそれに焦りを覚えた。
何も見えぬ暗闇は、全てを覆い隠す。視覚情報全てを奪われて、何が起きるか全く予想がつかない。それに「私」がつぶやいた言葉も気になる。
そこで、真っ赤な明滅。ゾワッとするような嫌な色が目の前に一瞬。
おどろおどろしい朱色が闇に紛れて見えた。
それが連続して目の前を染めていく。
イチ、ニ、サン。
イチ、ニ、サン。
リズムに合わせて、赤い色が灯る。
それは回数を繰り返していくうちに、複数の放射状に散らばった赤い点に薄暗い光が反射して、そう見えているのだとわかった。
調子の悪くなった蛍光灯のような光が、世界を微かに映し出している。赤い、赤い。
イチ、ニ、サン。イチ、ニ、サン。
イチ、ニ、サン。イチ、ニ、サン。
点滅は徐々に勢いを早め、アニメーションのようにその全貌が見えてきた。吐き気のするような濃紅。これまで見たこともないような、薄気味の悪い色が視界の一面を覆う。薄暗い赤黒の世界が、怖気とともに。
パッ、パッ、パッ、パ、パッ、パッ、パッ、パ、パッ、パッ、パ。
そこは奥行きのある部屋のようだった。黒い影と赤い光の明暗が、点滅が早まるにつれどんどん濃くなっていく。
パッパッ、パッパッ、パッパッパッ、パッパッパッ、パッパッパッパッパッパッパッパッパッ。パパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパ。
真っ赤に染まった部屋。光で目がチカチカしてそれくらいしか分からないものの、見れば見るほど赤い。点滅は繋がって。ほんの短かい感覚で明滅を繰り返す。頭がおかしくなりそうなほど、赤い赤い。
――そして。
「……っ、あぁ……」
部屋の中にいる「私」の姿が見えた。その背後には暗い影ができ、挙動不審にも周りを見回している。ブツブツと呟きながら、ぐるぐると動き回る。「私」は何をしているの?
「……」
ガッ、ガッ、ガッ、ガッ。
ガッ、ガッ、ガッ、ガッ。
そこから、ノイズが走り始めた。何かがずれてあたっているような、こちらの鼓膜を突き破り脳髄まで刺激するかのような。そんな耳障りの悪い音。
その鈍い音に「私」は怯え始める。身体が震えて止まらないのか、両手で身体を抱えて抑えている。
ガンッ、ガンッ、ガンッ、ガンッ。
ガンッ、ガンッ、ガンッ、ガンッ。
不快なノイズは止まない。それどころか音は大きくなりはじめ、周囲を揺らすまでになった。
「私」は真っ赤な部屋の隅に身体を寄せ、縮こまって体育座り。
そして最後には蹲る。耳を塞ぎ、何も見えないように。
ガッ……。ガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッ。
ガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッ。
鈍いノイズが連続して、世界を揺らす。揺らす、揺らす、揺らす。
音と音が反響して、頭が侵していく。
地震が起きているかのように、周囲は揺れ動き「私」の身体も動く。「私」は顔を見せず、ただ小さく身体を抱えて丸まる。
その音に混じって。
――アハッ、ハハハハハハ! アハハハハハハハハハハ………。
微かな、でも甲高い笑い声が響いた。誰だろう。壊れたおもちゃの人形が、ずっと笑っているみたいだ。感情がない。
――きゃは、きゃはははははははは! はははは…………。
次に、狂ったように笑う声がした。それは笑い声なのか、叫び声なのか、泣き声なのか区別がつかない。
でも分かるのは、それが楽しくて笑っているわけじゃないこと。たぶん苦しんでいる。聞いているこちらの心をえぐるような、悲痛な笑い声。
楽しくもないのに、笑うのはどうして。苦しいのに、笑うのは。
何を思って、笑うの。
その声を聴きながら、私はとても苦しくなった。
人の感情なんて、聞いているだけじゃ判断なんてできない。でも。どうしてかこの声だけはその心を分かりたいと思った。
『うぅ……。……だから、……捨てて』
また声がした。
ちらっと眼を移すと、そこにはうずくまるどころか這いつくばらんかぎりの「私」がいた。
笑い声を聞くたびにぶるぶると震えている。その姿は赤黒い世界に半分溶け込んでしまっており、何というか、全身が血に染まっているようにも、見えた。
ーーギョロ。
私がそちらを見たのと同時に、「私」ががらんどうの瞳でこちらを見た。暗い闇の底。感情が何も見えない。
しかし、唇が動いた。
『……リセットしなきゃ』
――その声だけ、よく響いた。
リセット……最初からやり直しってこと? でも、何を。
突然、機械音のような声が響いた。
『戻れ』
その言葉に従って、赤黒い世界が急速に歪んでいった。ノイズと入り混じって、わんわんと頭が揺れる。
視界がどんどん歪んでいき、最後には闇が全てを隠した。
闇はまた視界を奪い、最後には何も見えなくなる。
そして、音が消えた。気味の悪い笑い声も、耳障りなノイズも全て。私もそれに巻き込まれて、暗闇に沈んでいく。
でも、最後に。
四つん這いになって、私を見ている「私」の瞳と。
ーー立ち向かわなくては、切り捨てなくては、戻ることは出来ない。繋がれた鎖はずっと、そのまま。だから。
はじめにきいたその呟きが、響いた気がした。
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