悲鳴が聞こえる。
「はぁ……はぁ……」
目の前の土煙がゆっくりと晴れ、辺りを見渡すと目に映るのは、逃げ惑う人々と真っ赤な炎に包まれた建物。そして、空高く立ち込める黒い煙。それらが放つ喉の奥を刺すような臭いに眩暈がする。
息があがり呼吸がうまく出来なくて、私はただ呆然と立ち尽くしていた。
すると、またすぐに後ろで大きな爆発音がしたと思ったと同時に爆風に襲われ、受け身を取ることも出来ずに身体は勢いのまま投げ出され、全身を強い痛みが襲う。
「痛ッ……」
すぐに立ち上がって逃げようとしても、踏ん張った瞬間に足首に激痛が走り、力が入らない。
擦り傷で血の滲む手や身体、破れたドレスの裾にまでじわじわと重たい鉛が染み渡っていくような感覚に飲み込まれないように歯を食いしばってみるも、状況は絶望的で。
「見つけたぞ……ッ」
突然後ろからそんな声が聞こえ振り返った瞬間、私の目に映ったのは振りかざされた剣。それが私に向けられたものだと分かっていてもどうすることも出来ず、この後に待ち受ける痛みに備えて目を閉じたその時――。
「エレノア!!」
剣と剣がぶつかり合う金属音とともに、男のうめき声があがり、痛みの代わりに聴き馴染みのある声が降ってきた。
「怪我はないか?」
「伯爵様……」
男は私の前に膝をついた。
振り返れば、ここまでの私の人生は決して順風満帆とは言えない。
幼い頃に両親を失って、冷酷非情と悪名高いこの目の前の男――アッシュ・ロンベルトの元へと嫁いだ。
それは政略結婚と呼ぶにはピッタリの、形だけの結婚。私たちはお互いに干渉し合わない関係で、そこに愛などあるはずないのに。
「無事で、よかった」
今まで一度だって向けられたことのない、心の底からほっとしているような表情を浮かべながら、私の頬の汚れを親指で拭い去る姿に、鼻の奥の方がツンとして視界がゆらゆらと歪む。
「……ッ、どうして」
助けてくれてありがとうという言葉ひとつも言えず、絞り出した自分の声が震えているのが分かった。それは、命が助かって安堵したからじゃない。
「どうして、私を庇ったりしたんですか……ッ」
目の前で、無事でよかったと言ったアッシュの胸元は大きく裂け、そこから大量の血が滲んでいたからだ。
咄嗟に震える手で傷口を押さえても、この程度でどうにかなるような傷ではなく、私の両手は一瞬で鮮明な赤で染まっていく。
「……ッ」
苦痛の表情を浮かべ、崩れ落ちるように倒れこむアッシュを支えようとしたが、私ひとりの力では到底無理で、せめてアッシュの身体が強い衝撃を受けないように全身で抱きとめた。
「待っててください……!すぐに助けを呼んできます……ッ」
一刻の猶予もない。早く治療をしないと。
「エレノア」
立ち上がろうとした私を掴むアッシュの手は、簡単に振りほどけそうな程の力しか入っていないのに、私はその手を振りほどくことが出来なかった。
「急がないとこのままじゃ伯爵様が……ッ」
私が言いかけると、力なくゆっくりとした動作で持ち上がったアッシュのもう片方の手が、私の頭を撫でた。
結婚して夫婦となってから、一度たりとも私に触れようとしなかったアッシュが、髪、頬、唇と、私の体温を確かめるように優しく触れていく。
「いや……やだ……だめ」
私に触れるアッシュの手から伝わる熱が徐々に下がっているのが分かって、ずっと堪えていた涙が頬を流れ落ちる。
「早く……逃げろ……」
その言葉に対して私が首を大きく横に振るとアッシュは困ったように微笑んだ。
それからゆっくりと瞬きをしてから、小さく掠れた声で呟く。
「……出会った時からずっと……愛してる。――ヴィオラ」
「……ッ!?どうして伯爵様が、その名前を……?」
私の言葉が届くことはなく、その瞬間、アッシュの腕は力なく地面へと下ろされた。
「ダメです!……伯爵様!……起きてください、伯爵様!!」
その間も、傷口からはドクドクと絶え間なく血が流れていて、アッシュの口元までもが、血で染まっている。
薄く開いた瞳から、光が徐々になくなっていくのが嫌で、何度もアッシュの名前を呼ぶのに、何度呼んでも彼が目を覚ますことはもう二度とないと分かって、灰色の雲が立ち込める空の下、私は泣き続けた。
まだ一握りの体温が残るアッシュの身体を抱きしめながら、声が枯れるまで。
「いたぞ!!殺せー!!」
――目の前が真っ赤に染まり、私の人生はここでエンディングを迎えた。
命尽きた人はみんなここに来たのかな?なんて考えながら、底がない暗闇の中をただひたすらに落ちていく感覚に身を委ねる。
18年という私の短い人生は考えれば考えるほど、後悔ばかりが残る。ああすればよかった、こうすればよかったと言い出せばキリがない。
でもどうしたって考えてしまう。例えば私が選んだ選択肢がどこか違っていれば、この人生は何か変わっていただろうか?
両親といつまでも仲良く幸せに暮らせる未来。
戦争なんて起きない未来。
アッシュが私を庇って死ぬことのない未来。
私の選択する道で変わる未来があるとするのなら“やり直したい”と心の底から切に願う。
あのね、私、本当はもっとあなたと話してみたかったの。
「伯爵様」ではなく、あなたのその名前を呼んでみたかった。
冷酷非情だと言われていたあなただけど、形だけの夫婦として過ごした時間の中で冷酷な人だと、非情な男だと感じたことはなかったから。
私は本当のあなたを知りたかった。もっと仲良くなれたらって思ってた。
覚えているかな?
初対面の日、あなたが私に言った言葉は「俺を愛さなくていい」だった。
それなのに、命が尽きる最後の瞬間、あなたが私に伝えた言葉は「出会った時から愛してる、ヴィオラ」だなんて。
分からないよ、それだけじゃ。
“愛してる”の理由も。
“ヴィオラ”と、亡くなった両親しか知らない私の本当の名前をあなたが知っていた理由も。
今になって聞きたいことが沢山あるのに、もう何一つ叶わないまま、私の命は尽きてしまったから、きっとこのまま眠るようにこの暗闇に溶けていくのだろう。
ねぇ神様。こんな散々な人生を生き抜いた私の最後の願いを一つだけ叶えてくれるのなら、一言だけ彼に伝えたい言葉があるの。
一度でいい。
ずっと言えなかった言葉。
ずっと伝えたかった言葉。
「アッシュ……私もあなたのことを……」
そう言いかけた時、急に目の前が明るくなった。
「え?」
眩しさに顔をしかめながら、ゆっくりと目を開けると、そこには色のある世界が広がっていて、カタカタと全身が揺れる振動から察するに、どうやら私は馬車に乗っているらしい。
そして何度か瞬きを繰り返し、よりクリアになった視界に飛び込んできたのは、見覚えのある景色。
「ここって……レトルア?」
セインテニア国は10の地区からなる島国で、辺境伯であるアッシュ・ロンベルトはこのレトルア地区を治めている。
さっきまでは地獄のような戦場にいたはずなのに、まるで夢から覚めた時のような感覚に近いそれに驚いていると馬車が足を止めた。どういう訳か、不思議なことに私にはこの先の展開が手に取るように分かってしまう。
私が身に着けているのはこの日の為に用意された煌びやかなドレスに、大げさなくらい豪華な馬車、そしてこの状況は――。
「嘘……。もしかしてこの日って私がアッシュの元へ嫁いだ日……よね?」
同じ日を繰り返す――。なんてこと、あり得るはずないのに、目の前に広がる光景は、五感をくすぐる匂いと眩しいくらいの色彩で輝いていた。
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