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タダで済むと思うな

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タダで済むと思うな

32 - 番外編第二部 家族編/#EX02-01.火急

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2024年11月06日

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連休明けの、火曜日。昼休みにふと携帯を見れば、ちょうど手に取った瞬間、計ったかのようなタイミングで携帯が震える。発信者は、

(……勝彦?)

仕事をしているはずの時間帯に、何故。疑問を覚えながらも虹子は電話に出た。「……はい」

「西河虹子さんの携帯電話でお間違いございませんか」

「……はい」

勝彦の声ではない。自席を離れながら、訝しげに虹子が答えれば、

「こちらは、救急の者です。本日、井口勝彦さんは、ご自宅にて咳が止まらず、手足のしびれを感じ、ご自身で救急車を呼ばれまして。それで、お電話させて頂いております」

突然の発言に、頭が真っ白になる。息子の智樹からは、勝彦が気管支炎を患っていることは聞いてはいたが。まさか、救急車を呼ぶだなんて。なんということだろう。

「……井口勝彦さんは、お近くに頼れるかたがおられますか」

相手は、虹子が元妻だということも分かっているのか。勝彦の容態が気になる。

「いえ。……千葉に、両親と、兄一家がおりますが、全員仕事をしておりますし、すぐに駆け付けるのは厳しいかと……遠方ですし。

どちらの病院に搬送されるのですか」

「T大学病院です。Y駅近くの」

「では、わたしが行きます」

「いつ頃着きますか」

「……一時間弱で着けるかと思います」

「分かりました。出来ましたら着替えをお持ちになったほうがよいかもしれませんが。T大学病院に着きましたら、受付で名前を言って頂ければと思います」

「……分かりました。よろしくお願いします」

電話を切り、すぐに石田の元へと向かった。

顔色から察したらしい。石田が、

「……虹ちゃん。どうした?」

「元夫が……救急車で運ばれまして。身元を引き受ける人間がいませんので、出来ましたら午後は早退させて頂きたく思います……」

石田と想いを通わせる虹子ではあるが、二人の関係はまだ内密である。上司としての顔を貫く石田が、

「それは……大変だね。後のことはいいから、行っておいで」

「……ありがとうございます」

虹子は頭を下げ、取るものもとりあえず、会社を出た。


確かに、あのひとは、人でなしではあれど。だからといって病気で弱り切って欲しいとまでは思っていない。

電車で病院へと向かう最中、虹子は心配のあまり、なにも考えられなかった。電車内だと常に読む文庫本など勿論、手に出来るはずもない。ただ、勝彦の無事だけを祈っていた。

こうして見ると、平日の電車内は、平和そのものだ。マスクをする人間が多いのを除けば。コロナウィルスが世間を騒がせているが、電車に乗る人間は多い。自分と同世代か、或いは若い世代ばかりだ。皆、どこへ行き、なにを考えるのだろう。

大切な人間の安否を気遣うのは自分だけだろうか。

胸元を掻き合わせ、虹子は、一刻も早く病院に辿り着きたい。それから、勝彦に会いたい……。

あんなに憎んでいたにも関わらず、勝彦には、元気でいて欲しい。

あんなひとでも、子どもたちの父親であることには、変わりないのだから。――もし、あのひとに、なにかあったとしたら、誰が一番傷つくのかを、彼女は知っている。


駅に到着すると、駅からさほど遠からずの病院へと、虹子はひた走った。

病院には、診察や会計を待つ人間が大勢いた。

受付で、虹子は、声をかける。「……あの。先ほど、救急車でこの病院に担ぎこまれた、井口勝彦の身内の者ですが……」

「ああはい」虹子にとっては、一生に一度くらいの体験であるはずが、この受付の女性は、そうした状況に慣れっこらしい。極めて落ち着いた様子で、「いま、確認しますね。お少しお待ちください」

虹子に背を向け、電話をかけると、なにやら、四階の井口さんの――奥様が――と話している。

わたしは、妻ではないのだ。

と、全世界に向かって叫びだしたい心境だった。生活のこまごまとしたことを任される、奴隷という立場から解放を求めて、勝彦を、自分の人生から切り捨てたはずだったのに。結局自分は、彼の元へと舞い戻っている。

「いま、三階の内科で受診をしているところです。内科で、名前を言って頂けますか」

ふるえる声で虹子は答えた。「……はい。分かりました」


内科は、見るからに具合の悪そうな患者でいっぱいだった。

マスクを装着せぬ虹子に、訝しげな目線が寄せられる。

風邪や、インフルなどが流行る、この時期。咳き込む人間もおり、改めて病院とはこういう場所なのだと思い知らされる。それぞれが病気に悩み、医者に診察を受ける、特殊な空間。下の息子の智樹は、よく風邪を引いたが、子どもたちが小学校高学年に差し掛かった頃から、病院に行くことは滅多になくなったので、こうして待合で待つのは久しぶりだった。

受付は閉じており、誰も現れる気配がない。内科から出てきた、通りがかりの、看護師と思われる女性に、虹子は、声をかけた。

「あの。……先ほど救急で運ばれた、井口勝彦の身内の者ですが……」

ひょっとしたら自分の人生、あと何回こうした機会に恵まれるのだろう、と虹子は思う。看護師は虹子を見て納得したように、

「井口さんの奥様ですね。井口さんは、いま、横になっています。先生からお話がありますので、おかけになってお待ちください」

「……主人は、無事なのですか」

「意識ははっきりしております。点滴を打って休んでいます」

――よかった。

少なくとも、勝彦は、生きている。そのことが、猛烈に嬉しかった。虹子は涙ぐみ、頭を下げた。

このほうがなにかと好都合だと思い、虹子は、再び、勝彦の妻という役割を演じることに決めた。

内科の部屋に呼ばれ、医者から、説明を受けた。緊張の面持ちの虹子に対し、医者は、

「井口さんは、K内科を三度受診していまして。気管支炎という診断だったようです。それで、咳がすこし落ち着いたと思われ、様子を見ていたところ、また悪化し。当院を昨日、受診されてまして。喘息という診断を下しました。

ご主人は、おそらく、過換気症候群だと思われます」

初耳だ。聞いたことのない病名を告げられ、虹子は、喜んだらいいのか、不安を加速させればいいのか、どちらなのか分からなかった。怪訝な表情の虹子に、医者は、「若いお嬢さんに多い症状なんですよ」と補足する。

「心電図も、血液も、全部検査しました。ご主人は過去、心臓の手術をされたとのことですが……心臓に、異常はありません。ただ、この血液検査の数値からするに、過換気症候群だと診断するのが妥当だと思われます。見てください。白血球の数値が高く、酸素濃度も高い。一方、二酸化炭素濃度が異常に、低い。

ご主人は、喘息をこの一ヶ月ほど患っていたということで……まあ、喘息だと判明するのが当院を受診して初めてだということで、薬も効かず、それでこのご時世ですからね。コロナウィルスの疑いをかけられ、ストレスを抱えていた。

喘息で苦しくなり、通常、自然に出来るはずの呼吸が行えなくなる。は、は、は……と、短い呼吸を繰り返し、血中の二酸化炭素濃度が減少し、血液がアルカリ性に傾き、息苦しさを覚える。ところが、パニックになり、より、酸素を吸おうとする。末端まで酸素が回らなくなる。手足のしびれは、それが原因ですね。

いまは落ち着いていますが、搬送当時は、かなり、衰弱した様子が見られました。二三日入院をして、様子を見ましょう」

「喘息の原因は……なんなのでしょう。主人は、喘息を患ったことがないはずですが……」

「喘息は、そこらへんにあるウィルスに感染することで起こる、風邪みたいなものですから。原因は分かりません」

「そうですか……」

「とにかく、安静にして、様子を見ましょう」

「分かりました。よろしくお願い致します」

医者から説明を受けた後、虹子は、いよいよ勝彦の元へと通される。

小さなベッドに眠る勝彦は、なんだか、小さく見えた。――わたしの前では、あんな威張り散らしていたのに。

ひとは、死んだら、誰しも、一緒なのだ。

骨になり、自然へと還っていく。

そこには、富も名誉も名声も関与しない。魂の抜け殻があるだけだ。人間は等しく平等――久しぶりに見る、弱り切った勝彦の姿を目にした虹子は、そんなことを考えていた。

「井口さんのご家族のかたですね」と近づいた看護師が、「持ち物をご確認頂けますか」

病院では、救急車で運び込まれた患者に対し、そこまでチェックをするものらしい。見れば、看護師は、バインダーに乗せたチェックリストの紙を持っており、ひとつひとつ、チェックをしていく。

鍵。時計。携帯。所持金。クレジットカードの数に至るまで。

パンツの後ろポケットに鍵を入れる癖は、相変わらずらしい。こういうときは、危ないではないか。顔を起こし、意識のはっきりした勝彦に対し、バッグのポケットを指し、「ここに入れておくわよ」と話しかけた。

「……すまない。頼れる相手が、きみしか思い浮かばなくて……」

「いいのよ。困ったときはお互い様だから」続いて、虹子は、看護師の視線を意識し、「ええと。それで……わたしは、どうしたらいいのかしら。入院手続きとか……下着の替えとか。咄嗟だったからなにも持ってきていないわ」

ひとりぼやいたつもりだったが、勝彦が反応した。

「鍵を渡す。……下着、汗まみれになっちまったから、替えの服を何枚か、持ってきて貰えないか? 部屋番号とアパートの場所は、後で、携帯で送る……」

静かに、虹子は答えた。「分かったわ」

「それでは、ご主人様は、このまま入院となりますので。なにかお話したいことなど、他にありましたら……」

「いいわ。大丈夫。……心配して駆け付けてみたけど、思ったよりも元気そうでほっとした」

「おれは、まだまだ死ぬわけには行かねえんだよ。……あつ森をするまでは」

車いすで運ばれていく勝彦を、なにか、胸苦しいような、切ないような気持ちで、虹子は見送った。


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