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きっと彼女は、まだ俺をリセだと思っている。
本当の自分は、|麻王《あさお》|理世《りせ》。
|乾井《いぬい》の悪人ぶりなど、まだ可愛い。
本当の悪人は、悪い顔をしないで、欲しいものを手に入れる俺のような男のことを言うのだ。
「……世、理世! 聞いているのか」
「聞いてますよ」
――適当にね。
父は俺に説教をするつもりなのか、|麻王《あさお》家本邸に、俺を呼びつけた。
仁王像のように玄関で待ち構えていた姿を見て、なんの話をされるのかすぐに理解できた。
「女装をやめろと言ったはずだ」
リセの格好で来たことが気に入らなかったらしい。
女装は趣味ではないが、役に立つ。
特にリセの格好をしていると、相手が油断してくれる。
麻王理世だと、相手は身構え、話す前から警戒されてしまう。
「この姿は仕事の一環だって、以前に言ったはずだけど?」
「そうそう。父さん。理世の女装は役に立つ。モデルとしても優秀で助かってますよ」
珍しく本邸に来ていた兄の|悠世《ゆうせい》が顔を出した。
隣にはモデルのローレライがいるが、いても彼女はなにも話さない。
最初は嫌な顔をしていた父も慣れてしまったようで、今は悠世とセットだと思っているのか、いないほうが不自然に感じるようだ。
今日のローレライは、ストライプのシャツとプリーツスカート、眼鏡をかけて髪はきちんと結んでいる。
テーマは兄の秘書だろうか。
一見、普通に見える服装だが、『|Lorelei《ローレライ》』のソーイングスタッフによって丁寧に縫われ、型崩れしにくいジャケットとスカートだ。
小さなブランドと違い分業が行き届いているせいもあるが、『|Lorelei《ローレライ》』のスタッフは、全員が一流である。
そのスタッフによって、手掛けられたローレライの服。
ローレライが着る服や身につけるものは、いっさい手を抜かず、悠世が用意しているという噂だ。
二人は一緒に暮らしており、悠世とローレライは『|Lorelei《ローレライ》』のデザイン事務所が入るビルの最上階のペントハウスを住まいにしている。
元々、悠世が一人で住んでいた。
――ビルは|麻王《あさお》グループの持ち物だが、アパレル部門の利益はほとんど『|Lorelei《ローレライ》』が占めている。誰も文句は言えない。いや、言わせないのか。
人形のようなローレライをイメージモデルに起用するよう提案したのは俺だ。
表向きは悠世としたのは、あくまで俺は裏方の役目を担うつもりでいたからだ。
「父さん。ローレライがいなかったら、理世にはもっとモデルとして働いてもらうことになっていたよ? ローレライに感謝だね」
父は悠世をにらんだ。
息子たちにそこまで厳しくない父だが、将来、麻王グループの社長になる俺に女装させ、モデルをやらせるのだけは、断固反対している。
もちろん、悠世が父の言うことを聞くわけもないのだが……
――父が怒りたい気持ちもわかる。悠世には反省という文字がないからな。それから、常識も。
「悠世。言っておくが、理世はいずれ麻王グループの社長になる。今後、女装させるのは禁止だ。お前が自由にできるのも、理世のおかげだということを忘れるな」
「わかってるよ。理世は麻王グループの顔で代表者。俺はただのデザイナー。優秀な弟の邪魔になりたくない」
「ひがんだフリをするな」
父は悠世の演技を見抜き、本気で怒っていることに気づいた。
「父さん。血圧が上がるよ? 俺はただ弟が結婚して引っ越すというから、お祝いにきただけなのに、説教されるとはね」
「お前が祝いだけのためにくるとは思わん」
「さすが父さん。正解。理世の結婚相手がどんな相手なのか、聞きたかっただけだ」
いつもなら、父と悠世の間に入って、仲介する母は、友人たちと観劇で不在だった。
友人といっても、麻王グループの奥様たちで、麻王グループがスポンサーを務める舞台を観に行っている。
オペラ、バレエなどに対しても、スポンサーとして援助しており、主にそちらの人間関係は母が築いたものだ。
「父さん。説明不足だった俺も悪い」
俺が二人の間に入ると、父は黙った。
とはいえ、父も俺の相手について知りたい気持ちがあるからだろう。
母のほうは、『理世さんが選んだ相手なら、どなたでも』という受け身なタイプである。
信頼されているというより、重大な決定は、祖父と父に任せているというのが正しい。
「相手は『|Fill《フィル》』の新人デザイナーだろう?」
すでに悠世は、誰から聞いたのか、把握していた。
――どこまで知ってるのか。
「去年、俺が『|Lorelei《ローレライ》』で使えそうなデザイナーを探していた時、理世はいないって答えていたよな?」
「言った」
「俺が目をつけていたデザイナーとパタンナーに独立された。その上、お前の結婚相手が『|Fill《フィル》』の新人デザイナー。理世、なにを考えてる?」
悠世は面白くないだろう。
先に『|Fill《フィル》』の二人を見つけたのは悠世で、ブランドが駄目になった後は引き抜こうと思っていたに違いない。
「『|Fill《フィル》』は潰させない」
悠世はあーあと言いながら、肩を落とした。
「麻王グループのアパレル部門に入れる。『|Fill《フィル》』が加われば、アパレル部門の強化になる」
父は納得したようで、ホッとした顔をした。
「なるほど。理世の結婚はそのためか。それなら、結婚するのもわかる。だが、スキャンダルとは無縁だろうな」
俺が恋愛感情を持って結婚する人間だと、誰も思わないらしい。
「普通ですよ」
父はちらっとローレライと悠世を眺める。
「……普通ならいい」
悠世に苦労している分、俺の結婚相手の判断基準が甘くなっている気がするが、それも仕方ない話だ。
ローレライを悠世が連れてきた時、彼女の年齢は二十歳だったが、見た目は少女。
あの時の父は『理世! 悠世の私生活を調べてくれ! とうとう犯罪に走ったかもしれん!』と、大慌てしていたことを思えば、『普通』であればいいらしい。
悠世は納得していないようで、俺の胸の内を知っているぞとでもいうような顔だった。
その隣にいるローレライは、色素の薄い瞳をこちらへ向け、ジッと見つめてくる。
――この二人には隠せないか。
特にローレライは黙っている分、人をよく観察している。
だから、俺がいつもと違うと気づいてもおかしくなかった。
「改めて紹介する。デザイナーとして、兄さんの前に現れるほうが、早いかもしれないが」
「どうかな」
悠世は余裕たっぷりに笑う。
「理世のことはもういい。理世は自分の立場をわかっている。だが、問題はお前だ。書斎に来なさい」
ローレライに聞かせたくないからか、父は悠世だけを呼んだ。
リビングに残ったのは、俺とローレライだけ。
「いいのか? きっと悠世の結婚話だぞ」
ローレライは一瞬だけ、悠世の背中を視線で追った。
でも、すぐに俺へ視線を戻す。
「結婚、おめでとう。理世が好きな人とうまくいって、私も嬉しい」
表情がほんの少しだけ変化し、笑顔を浮かべた。
――悠世が連れてきた時は、表情がなかった。
悠世はローレライを大切にしているのだとわかる。
ローレライは悠世を追わず、温くなったお茶を飲みながら待つようだ。
――あの二人の関係は、よくわからないな。
恋人だとは思うが、仕事のパートナーでもある。
割り切って付き合っているのは、果たしてどちらなのか――ローレライの作り物のような横顔を眺めた。
これは、二人にしかわからない関係だ。
「引っ越しがあるから、俺は行く」
ローレライはうなずき、俺を見送った。
本邸の自分の部屋に入ったが、荷物のほとんどは、すでに引っ越し先へ運ばれていて、がらんとしていた。
自分で運ぼうと思っていた箱がひとつあるだけだ。
この箱には、琉永からもらった物が仕舞われていた。
「琉永のあの様子だと、初めて会った時のことは、覚えてないだろうな」
俺が初めて琉永に会ったのは、専門学校が主催しているファッションショーだった。
悠世が目を付けていた|椛本《かばもと》|紡生《つむぎ》と|埴田《はにだ》|恩未《めぐみ》の二人が、自分たちのブランドを立ち上げてしまったため、『|Lorelei《ローレライ》』で働けそうな人材を探していた。
あの悠世と働くのだ。
簡単に見つかるわけがない。
学生を装って、専門学校のショーへ出向いた。
そんな中で出会ったのが、彼女――|清中《きよなか》|琉永《るな》だった。
笑顔でパンフレットを配布している学生たちは一年生のはずが、受付に誰もいない。
「貧血? 大丈夫?」
受付スタッフを探していると、すぐそばから、女性の声が聞こえてきた。
声の先には、具合が悪いのか、受付のスタッフの一人がしゃがみこんでいた。
それで、全員がそちらに意識が向いてしまい、受付がからになっていたらしい。
「琉永さん。ごめんなさい。準備中ですよね」
「まだ本番まで時間があるから平気よ。医務室まで行けないみたいね。椅子を並べるから、一度そこで横になりましょうか」
手を貸そうと思っているうちに、彼女は素早く椅子を並べ、人の目にふれないよう衝立てで隠す。
そして、後輩に指示を出す。
「私が受付をするから、先生を呼んできてもらってもいい?」
「は、はいっ!」
身近に体が弱い人間がいるのか、具合が悪くなった後輩を見ても動揺せず、彼女だけが落ち着いていた。
そして、ショーの雰囲気を台無しにしてしまわないようパンフレットを笑顔で配る。
「本日はようこそ。ショーをお楽しみください」
――プロだな。
俺の番になって、パンフレットを手渡された時、なにか話したいと思ったが、それは叶わない。
「清中さん! ありがとう!」
「準備に戻って!」
教師たちが駆けつけ、彼女は一礼して去っていく。
やはり、忙しかったのか、走っていった。
受け取ったパンフレットを見ると、そこには『清中琉永』という名前がある。
――デザイナーか。
忙しいはずだ。
後輩は迷惑をかけたと泣いていたが、彼女は泣いてなかった。
どうにかしてやるという顔をして、これから始まるショーを考えていた。
「土壇場に強く、根性もある。悠世が気に入りそうだ」
会場に入り、しばらく眺めていたが、『|Fill《フィル》』の二人組ほどの才能を感じる者は、今のところいない。
ショーも終盤になり、テーマはオートクチュール。
華やかでショーの最後を飾るにはふさわしい。
「ウェディングドレスか」
――いた。清中琉永だ。
彼女自身がモデル役をこなしているが、珍しいパンツスタイルのウェディングドレス。
だが、少しも地味ではない。
大きなリボンにも見える巻きスカート、肩から垂らしたリボンが、シンプルだが。きちんとドレスとして、魅せている。
レースのトレーンは長く、白のブーケを手にした彼女は満面の笑み。
――幸せそうだ。
観客の目は華やかなドレスではなく、彼女のシンプルなドレスへ向けられている。
このショーで、高評価を得るのは誰なのか、俺にはもうわかっていた。
ステージから去る前に、彼女はブーケを投げた。
ブーケは俺の手元へちょうど落ち、彼女はステージで精一杯なのか、笑顔で手を振るだけ。
――運命が手の中に落ちてきた。
そう思ったのは、きっと気のせいなんかじゃない。
ランウェイに全員が集合し、撮影が始まった。
――清中琉永は、他からもスカウトが来るかもしれない。
「優秀な琉永ちゃんが、私達のデザイン事務所に入ってくれて嬉しいわ」
「もうバイトで働いているけどね。やっと春から正式に採用できる」
その声に振り返ると、そこには『|Fill《フィル》』の二人組がいた。
――そうか、彼女は『|Fill《フィル》』に入るのか。
この時、自分でも思っていた以上に、がっかりしていることに気づいた。
そして、それと同時に。
――手に入れたい。
悠世と違って、俺にはやりたいことがなかった。
だから、麻王グループを継ぐことに決めた。
心から欲しいと思うことのない人間だと思っていたが、まさか今になって、渇望するとは。
――彼女を引き抜き、『|Lorelei《ローレライ》』へ? いや、違う。
さっきのショーをみる限り、清中琉永は『|Lorelei《ローレライ》』ではない。
彼女に合うのは『|Fill《フィル》』だ。
――諦める? 今までに諦めたことがあったか? 一度もない。
手に入らないものが存在することを知り、それは胸が苦しくなるものなのだと知った。
――清中琉永のブランドを立ち上げるには早い。無名すぎる。だが……
どちらが彼女にとってベストなのか迷い、考えていると、スマホの着信音が鳴った。
悠世からだった。
『理世。いい人材はいたか?』
そう悠世に言われた瞬間、迷いは消え、とっさに嘘をついた。
「いや。いない」
『こっちもだ。今年は不作かな』
「そうだな」
俺は無意識に決断していた。
彼女にとっていいほうを選択し、そして、今はおとなしく引こうと決めた。
――まあいい。また彼女と会えるだろう。この業界にいる限り。
リセとして、自分がモデルを続ければ、いずれ彼女のほうから俺を見つける。
その時は。
「彼女は必ず、俺を見る」
たった一瞬で、君を魅了し、俺の手の中へ捕らえてしまおう。
俺から逃げられないように。