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ゆっくりと目を開けると、僕はまた元のオリの中にいた。少し安心した。だけど何かが変だ。
見れば下半身が、包帯でぐるぐる巻きにされている。
あまりのことに呆然とする僕の耳に、隣のオリからさっきのおじさんの声が聞こえてきた。
「気が付いたか? お前の足、ひどい状態だったんだな。お前んとこの人間と、ここの先生が話していたけど、お前人間の車に
轢かれたんだって?」
ああ、そうだ。僕、お嬢さんに挨拶がしたくて、道路を渡ろうとしてたんだ。
もう一度、グルグル巻きの包帯を見た。あまりにも多くのことが、いっぺんに起きていて、僕はもう何がなんだかわからなく
なってきている。
ふとオス猫の口から出たある言葉に気が付いて、あわてて顔を上げた。
「なんで、あなたは人間の言葉がわかったんですか?」
「ん?」
「僕の人間と、ここの先生が話してたって言ったでしょう。
あなたは、人間の言葉がわかるんですか?」
体の大きなオス猫は、ちょっと驚いた風な顔をして、しばらく黙って僕を見つめていたが、いきなり顔中を優しい笑顔にして
言った。
「お前もそのうちわかるようになるさ。それよりお前、今日から家猫デビューだな。家猫は窮屈なこともあるけれど、慣れて
くればもう最高だぜ」
それだけ言うと体のでかいオス猫は、くるりと向きを変え、こちらに背を向けてしまった。きょとんとしている僕の目に、白
い服の人間が近づいて来るのが見えた。
「○△×」
「おまえの人間が、向かえに来たってさ」
体の大きなオス猫が、背を向けたまま通訳してくれた。
「俺はもう少しここにいるみたいだ。お前の足、治るといいな。それからお前の人間のことだけど、れれっていう名前らしい
ぜ。他の人間がそう呼んでた。じゃあ、お前、長生きしろよ。れれと仲良くな」
「お前の人間って? れれって? あの……」
白い服の人間にかかえられ、隣の部屋に運ばれて行く僕の声は、もうオス猫には届かなかった。
ドアが開くと、そこには最初に僕をここに連れてきた人間がいた。
れれという名の人間は、「○△×」とまた訳のわからない人間語で、白い服の人間と話をしていたかと思うと、包帯に巻かれた
僕をカゴではなく、今度はピンクのちょっとこぎれいな入れ物に押し込み、車のエンジンをかけた。
―次は何が起こるんだろう。
あの日、人間の運転する車に踏み倒され、アスファルトに貼り付けられた瞬間から次々と展開する状況に、もう少々のことで
は驚かないぞという開き直りにも似た感情が生まれていた。
と同時に、僕に起こっている全てのことに対する疑問が膨らんでいった。
人間の運転する車の揺れに身を任せ助手席にベルトで固定されたその狭い入れ物の中で、僕は次々と湧き出してくる疑問を持
て余していた。
―あの建物の中にたくさんいた犬猫達は、一体何だったんだろう?
僕が人間に食べられるって言ったら、大笑いされたよな。何でだろう? みんな怖くないのかな?
それから、あの体の大きなオス猫は、なぜだか人間の言葉がわかるようだった。
優しいおじさんだったけど、最後に変なこと言ってたよな。
れれと仲良く、だなんて、人間は敵だってことあのおじさん知らないのかな?
それにしても何でこんなに次からつぎへと不思議なことが起こるんだろう?
車に揺られながら、次から次に生まれてくる疑問が、また新たな疑問を生んでいった。
しばらくして車が止まり、僕は入れ物ごと人間の家に運び込まれた。これからどうなるんだろう。こんなに包帯で巻かれてい
たら、逃げることもできない。
こんなもの、引きちぎってやる! と包帯の端に爪を立てたとたん、僕の入っている入れ物の中に、人間の手が、にゅっと入っ
てきた。
慌ててそこらにしがみついたが、無駄な抵抗だった。
僕の体はあっという間に入れ物から取り出され、人間に抱きかかえられた。
シャーと威嚇することも忘れ、僕は耳をペタッと後ろにくっつけたまま、なされるがままの状態でいた。れれという名の人間
は、僕の体をぎこちなく抱えた後、恐る恐る下に降ろし、何かフカフカの上に僕を置いた後、そそくさと部屋を出て行った。
初めて触れるその気持ち良いフカフカに、僕は思わず額をこすりつけていた。
―ああ、気持ちがいい。
僕は少しほっとして、フカフカの肌触りの上で体をグーンとのばしてみた。
こんなに思い切って体を伸ばしたのは、久し振りだな。それだけで、元気が湧いてくる、と思った瞬間ドアが開き、僕はあわ
てて体を縮めた。
今度は今まで見たこともないような大きな箱がやってきた。
れれは、その平たい箱をドンと音を立てて目の前に置いた後、ドアも閉めずに出て行った。
―これは何だ?
そっと中をのぞいて見た。グレーやピンクやブルーの砂のような粒が、びっしり敷き詰めてある。
―これはトイレだ。
何故だか本能的に、これがトイレであることがわかった。
そういえばこのところ、恐ろしくてトイレに行くことさえ、忘れていたような気がする。
恐る恐るトイレに近づく僕の前にバンと音をたてて次に置かれたのは、てんこ盛りのカリカリご飯だった。
「○△×」 れれが、僕に通じない人間語で話しかけてきた。
が、どう答えていいかわからず、とりあえずシャーと威嚇した。
れれは、悲しそうな顔をした。
意外な反応に、僕はちょっと慌てた。
しばらく、お互いをぼんやりと見つめ合った後、れれが急に僕の方に近づいてきた。
それから体を縮めて身構えている僕の背中に、そっと手を置いた。僕は、不思議な感覚に包まれた。
それは、今までに感じたこともない、恥ずかしいようなちょっと困ったような感覚だった。
れれは、それから何も言わずにドアを閉めて出て行った。
ひとり残された僕は、しばらくぼんやりとドアを眺めていた。
それから、ゆっくり体を伸ばした後、包帯に巻かれた足を投げ出し、ヒンヤリとした壁に身を寄せた。
―これから一体どうなるのだろう。やっぱり僕は……。
また、いつもの不安が、頭をもたげてくる。
ーダメダメ!
慌てて頭を横に振った。正直もう不安になることに疲れていた。もういい、なるようになれと思ったら、少し気持ちが楽になった。
僕は、久しぶりにゆっくりトイレを使った。
その後カリカリご飯に口を近づけてみたが、なんとなく食欲がなくて、食べるのはやめた。いろんな事が、あまりにも目まぐ
るしく次々と起こってきて、もう何をするのも億劫だった。僕はフカフカの布団の上に、ゆっくりと体を横たえた。次の瞬
間、深い眠りにおちていった。
ーチュンチュン、チュンチュン、雀の声だ。 ああ、よく寝たなぁ。朝だ。
何だか変な夢をいっぱい見たなぁ。さあ、今日もエサを探しに行かなくっちゃ。近くのコンビニの駐車場には、人間の食べ残
しの落ちていることが多いから、まずそこに行って、それからいつものスーパーのごみ箱へ、とそこまで考えたとき、
**「ああ、やっぱりこっちの方が現実なんだ」**と我に返った。
ここは人間の家の押し入れの中。目の前には、僕専用のトイレ。その横には美味しそうなカリカリご飯と使い古したお茶碗に
たっぷり入った水。
最低限の生活必需品が手の届く範囲に置かれている。
そしてその近くで一日中ゴロゴロ寝ている僕。
今まで外にいた時の生活とあまりにもかけ離れていて、正直僕は まだこの生活に慣れていない。
だから、毎朝目覚めた時、これから起きることは全て夢であってほしいと思う。だけどやっぱり起きることは全部現実なん
だ。あたり前だけどね。
ところで、つるつるの大きな台のある建物から、包帯に巻かれてここに運び込まれたあの日の夜、この家に住むもう一人の人
間が、いきなりなりドアを開け、僕の前にその大きな姿を現した。
思わず後ずさりしかけた時、ふとノラ猫集会で習った(人間学)の講座で習ったことを思い出した。
自由恋愛を基本としている僕たち猫社会と違い、人間社会は気の合ったオスとメスが(つがい)で共同生活をしているとのこ
と。だから僕の記憶が正しければ、目の前にいるこのデカい人間は
「れれ夫だ!」
猫好きオーラと猫どうでも良いオーラが七対三くらいの割合で混じっているれれ夫は、包帯に巻かれた僕の後ろ足をじっと見
た後、その大きな目を僕の顔の方に移し「○△×」と僕に話しかけてきた。
何とも答えようのない僕は、とりあえずシャーといつものように威嚇した。
その後すぐに、近寄るな光線を放射しようとしたが、もたもたしているうちに、れれ夫はそのままドアを閉めて出て行った。
しばらくすると向こうの部屋から、食器の音やら箸の音やらが、れれ夫婦の話す人間語に混じって聞こえて来た。どうやら晩
御飯の時間らしい。
人間は、なんてだらだらと時間をかけてご飯を食べるのだろう。僕たちは食べ物を見つけたら出来るだけ早くそれを胃袋に入
れるんだ。
そうしなければ、空から見張っているカラスにせっかく見つけた獲物を横取りされてしまう、と思った時、大きめのお皿にて
んこ盛りにされたまま手つかずで置いてある、傍らのカリカリご飯が目に入った。
ああ、それは外にいた時のこと。
とにかく、僕はどんなに空腹でも絶対にこのカリカリには手を出さないぞ!
それが人間に対する最高の反撃であるかのように決意を固めた僕は、その誘惑を断ち切るようにカリカリご飯に背を向けた。
向こうの部屋ではカチャカチャとお皿を洗う音が終わり、しばらくすると何やらゴソゴソ動かす音が聞こえてきた。
―あれ、二人がこっちに近づいてきたぞ。
二人分のスリッパの音が近づいて来たかと思うと、目の前のドアが開き、まずれれが、その後れれ夫がその姿を現した。
僕はあわてて机の下に隠れようとした。
が、両方の後ろ足を包帯で巻かれたままでは、思うように動けない。
あっけなくれれに抱えられた僕は、そのままリビング横の八畳間にある押入の中に居場所を移された。僕の後を追うように、
トイレと布団とカリカリご飯と水が押入の中に配置され、僕の引っ越しは終わった。以来この押入で暮らしている。
それにしても、外にいた頃ノラ猫集会で習った「人間学」が、こんな状況で役立ってくれるなんて、夢にも思っていなかっ
た。
今、不幸にも人間に捕まってしまい、この狭い所に押し込められたまま、びくびくしながら毎日を過ごしている僕だけど、あ
の授業のお陰で、れれ夫婦の毎日の行動がよくわかる。
このところ訳のわからないこと続きで、不安ばかりの僕にとって、少しでも(わかる)ことがあれば、それだけでありがたい
と思える。
例えば、れれ夫について。
朝早く大急ぎで出かけて行き、夜になってちょっと疲れた様子で家に帰ってくる彼の行動は、(典型的な人間のオスの暮ら
し)という授業で習った通りのものだ。
そしてトモナントカという単語だったけど……ええと……あ、思い出した(トモバタラキ)だ。
どうやられれ夫婦はトモバタラキとやらで、れれもお昼前には出かけて行き、夕方スーパーの袋をさげて帰ってくる。
この行動パターンもまた、ノラ猫集会の人間学の時間に勉強した通りだった。
今さらそんな知識が何の役に立つんだ、と思っているかもしれないが、それは早計というものさ。敵の行動パターンさえわか
れば、ここから逃げることだって簡単なことだよ。
まあ足のケガが治るまでしばらくはここにいて、包帯をかみ切ることに集中するとしよう。
―あ、れれが帰ってきた。
玄関のドアが開く音に、僕は体を固くして押入の端に身を寄せた。
この家に捕らえられて以来、僕の世話はれれが担当でやってくれている。
といっても、僕は正直れれのことを信じていない。たとえれれが友達オーラらしきものを持っていたとしても、れれは人間
だ。いつその牙をむいて僕に襲いかかってくるかわからない。
僕は気を抜かないようにと、いつも自分に言い聞かせていた。
なんにしても、こんなところで、いつまでも人間に食べられるか心配しながら暮らしていくなんて、まっぴらごめんだ。
いつかは、この包帯をかみ切ってここから逃げだすぞ!と思った時、ふと便意を感じた。
すぐに、僕は目の前のトイレを使うことにした。トイレにしゃがみながら、これは便利だと思った。
実は、外で暮らしていたとき、どこで用を足すかということが、結構大変な問題だったんだ。
僕たちには、よくわからないのだけど、
「ここは、絶対にトイレにしてはいけない」という場所があってね。
もしうっかりそこで用を足そうものなら、大変なことになるんだ。
人間に「○△×! 」と怒鳴られ、追い立てられ、ひどい目に遭った仲間もいたんだ。
ちゃんと猫語で “ここで用を足してはいけません ”と書いてくれてさえいれば、分かり易いんだけどね。
そんなことを考えていると、僕は、ここの生活もちょっと悪くはないかな、なんてチラッと思ったりもしたが、次の瞬間「ダ
メダメ。トイレごときで僕はだまされないぞ」と、自分に言い聞かせた。
いきなり押し入れの戸が開いた。れれだ。
あっと言う間もなく、僕の体は持ち上げられ、リビングに置かれたダンボールの台の上に降ろされた。
目の前にれれの顔があり、れれの目が、僕の目の高さにある。
僕は、生まれて初めて、人間の顔をこんなに間近に見て驚いた。
人間の顔はつるつるで、毛が生えてないんだ。その代わり、上の方から黒くて長い毛が、ドサッと思い切り密集して生えてい
るんだ。
ーなんだか、不格好だなぁ。
「○△×」
れれが、また訳のわからない人間語を喋ったかと思うと、いきなり僕の唇の端をめくった。そして、ものすごい勢いで、僕の
歯茎にペースト状食べ物を塗り込んだ。
「あ……」
食べ物が、ゆっくりと口の中に溶け出していく。
「美味しい……」
だけど、歯茎に塗り込まれた食べ物が、唾液に溶け出していくのを、楽しむ気にはなれない。
やってみたら分かるけど、ほっぺたが膨らんで、顔がねじれるくらい歯茎に食べ物を塗られたら、はっきり言って気持ち悪い
んだ。
僕は、大急ぎで舌を使って食べ物を歯茎から剥がし、喉の方に移動させ、そのまま食道に送り込んだ。ほっとしたのも束の
間、れれはすぐに僕の唇をめくり、歯茎に今度はもっとたっぷりと、食べ物を塗り込んだ。「止めてくれ~」と叫ぶ暇もない
くらい、飲み込めば塗られる、塗られれば飲み込む、を繰り返した。僕はだんだんと状況が分かってきた。
これは、れれが考えた**(拒食症の猫にごはんを食べさせる方法)**かもしれない。そうだ、そうに違いない。 実は僕、この家
に来た時から、食べ物を拒否し続けていた。
今は足が痛くて思うように動けないけど、僕だってこの間までは、そう、あの日人間の車に轢かれる前までは、野原を駆けめ
ぐり、チョウチョを追っかけたり獲物を 捕まえたりして、自由にのびのびと生きていたんだ。
それに比べ、今のこの情けない毎日はなんだ。包帯でグルグル巻きにされ、おまけにこんな狭苦しい所に閉じこめられてしま
って。
僕は、せめてもの反抗、とハンガーストライキを決め、目の前に置かれた美味しそうなカリカリご飯には、口をつけないでいた。
たち猫の場合、人間でいう上の奥歯の部分には歯がない。
だから、れれも「猫に噛まれたらどうしよう」なんていう心配もいらなくて、好きなだけ安心して僕の口の中に指を突っ込ん
でくる。
だけど、なかなかのアイデアだと感心している場合ではなかった。
一日二回押入から引っ張り出され、何度も何度も口の中に指を突っ込まれては、たまったもんじゃない。別に痛いわけでも苦
しいわけでもない。
ただ変わった方法でご飯を食べさせられているんだ。ものすごく強引なやり方でね。
僕は観念した。
最初はれれだって、こんな面倒で退屈なこと、二、三日も続けたら飽きてくるだろうと思ったが、そんな気配もない。
仕方がない。れれのしつこさに、ついに僕は食べ物拒否をやめ、押し入れの中に定期的に置かれる食べ物をきちんと食べるこ
とにした。
ーま、いいか。大切なことはここから逃げ出すこと。それだけを考えよう。何がなんでも絶対にここから抜け出すぞ。
だけどこの時点での僕は、後で悲しい事実を受け入れなければならない運命にあることなど、想像もしていなかった。
~続く