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端も角も磨き上げられた窓硝子越しに秩序だった庭を臨むのは見目麗しい婦人十五夜だった。出窓にもたれるように腰掛け、垂れた眉の下に儚げな瞳が揺らめき、なだらかに沿った鼻の下で血の通った唇が溜息をつく。
高い身分を思わせる豪奢な寝室だ。テロクス産黒檀の優雅に渦巻く象嵌を施された寝台、閉じてしまえば何者にも伺い知れぬ分厚い窓掛けには月と獣の物語が抽象的に刺繍されている。桃花心木材の床は経年を帯びつつもよく磨かれて艶めいている。
何者かが何かを言ったのを聞き、クールンが振り向くと侍女が扉の向こうから呼びかけていた。何と言っているか分からないままに返事をする。
「ご案内して。この部屋よ」
侍女もやはり戸惑っているのか、しばらくしてから扉を離れた。
クールンは立ち上がり、部屋を右往左往し、鼻をひくひくとさせる。変な匂いはない。再び窓際に戻り、夏の涼やかな風にかたかたと揺れる様を見つめる。
再び、今度はクールンの知っている言葉で声をかけられる。クールンは故郷とはまるで違う見慣れぬ景色を離れ、扉へと急ぐ。
「お待ちしていました、誘う者先生」クールンの声は小鳥を追う子供のように弾む。
扉を開けると、荒々しい出来の彫刻のような粗野な、しかし吸い込まれるような美貌の男が待ち受けていた。視線は燠火のように秘めて熱く、夢見心地な理想が実現する予感に胸が高鳴る。心の内が全て曝け出され、考えていること、感じていることの全てを読み取られてしまった気分になる。
一言を聞くこともなく雄々しいドルムルーの逞しい腕でクールンは軽々と持ち上げられ、その落ち着きのなかった両足から床を奪い去る。
大股で部屋を横切るとドルムルーは繊細な骨董品のように労わりながらクールンを寝台に横たわらせた。そのまま乱暴に覆いかぶさろうとするドルムルーの厚い胸板をクールンの細い手が抗うように支えるが、重さに負けて細腕は屈する。
強い抱擁から逃れるように身をくねらせるが耳元で漏れる吐息と時折交わされる刺し貫くような眼差しに力が抜ける。
「お待ちになって、先生」クールンは荒げる呼吸の合間に何とか言葉を紡ぐ。「治療は、治療が先ではないのですか?」
「治療はずっと前に終わりましたよ、夫人。貴女の心の奥に刺さっていた棘は我が催眠術で引き抜いてしまったのです」
「でも、だけど、わたくし、憂鬱な日々が続いていますわ。確かに、以前のように涙を零すことはなくなりましたが、溜息ばかりついていることは自覚していて」
ドルムルーは何も答えずに微笑み、強引にクールンを引き寄せて口づけをする。何度も幾度も多様な、よく知っている口づけと知らずにいた口づけを繰り返し、息が止まり、指先が震え、胸がつかえ、足が痺れ、心臓が破裂しそうになる。
ドルムルーが耳元で囁く。「簡単なことです、夫人。私の愛が貴方を苦しめているのですよ。そればかりは私にも癒せない」
ドルムルーの首筋から背中へのなだらかな丘陵を見つめてクールンも囁く。
「だけど、でも、わたくし、まだ時折夢を見るのです。あの夜の夢を」
ドルムルーが驚いた様子でクールンの顔を見つめ直す。
「あの悪夢をまだ? おかしいですね。きちんと治療したはずなのですが」ドルムルーは思案し、はっきりと頷く。「よろしい。ではもう一度お聞かせください。その夜のことを」
「先生、ドルムルー先生。でもこんな風に治療をしたことはないでしょう?」
クールンの細指がドルムルーの肩に食い込むがその姿勢は少しも変わらない。
「どんな風でも治療できますよ。それに貴女の病を、癖を治すには一番です。さあ、夫人、お話しなさい」
クールンは苦し気に息を漏らしつつ過去を言葉にする。
「恋人がいたんです、先生。耕地の男という幼馴染でした」
「私のことは忘れて。過去に思いを馳せなさい」
「はい、先生。はい。だけどわたくしはもう一人の男をも愛してしまった。弓の練達。ケドウスの親友でした」
クールンは言葉を切り、ドルムルーの言葉を待つが沈黙と吐息と愛の技だけがあった。
「二人共を愛した罪は罰として清算されました。ついに密通は明らかになってしまい、二人は決闘をしました。あれが、あれが勝者の剣です」
クールンの視線の先、指さす壁には一振りの剣が掛けられていた。
「あの時、血に塗れていた剣の鈍い輝きを今でも覚えています」
波立たぬ湖面のように穏やかながら水面下に激しい流れを秘めたような娘クールンが、家族よりも長い付き合いの果てに固い絆で結ばれた親友の恋人が激しく身悶え、熱い吐息を漏らしている。
クールンの妖しく輝く眼差しにオーガスは昂り、鼻にかかる甘い声に震え、かそやかな吐息に高揚し、探るような愛撫に酩酊し、柔らかな腕の中で陶酔する。ずっと精神を支配していたはずの理性は鳴りを潜め、獣性が毛を逆立て牙を剥いて咆哮する。
まるで今にも消え去りかねない儚げな存在を繋ぎ止めるように強く抱擁し、口づけし、クールンの感触で己の存在を確かにする。濡れた肌が熱く燃えて、薄い空気を求めるように呼吸が荒げ、二人の意識が融けあい、膨らみ、張り詰め、弾ける直前に、叩きつけるような高らかな音と共に分断される。
開かれた扉に親友ケドウスが立っていた。瞳は復讐者の如く怒りに爛々と燃え、被虐者の如く歯を食いしばり、獣の如く顔の真ん中に皴を寄せ、義憤を握りしめた拳が震えている。
「違うの、ケドウス!」
クールンが甲高い声で叫び、逃れるようにオーガスを押しのけて離れる。
「驚いた。言い訳の余地があるのか?」ケドウスはお道化るように笑みを浮かべる。「聞かせてもらいたいな。クールン。何が違うんだ? オーガスでもいいぞ。言い訳があるなら言ってみろ」
「俺にはない」とオーガスは答える。「クールンを愛している。それだけだ」
古くからの親友への友愛と同じく、それは確かなことだった。ケドウスほど心を許した男はおらず、クールンほど心を狂わされた女はいなかった。
「それだけか、親友。残念だ」ケドウスは毛布に包まるクールンの方に目を向ける。「それで? クールン。言いたいことがあるんだろう?」
「本当に、私は貴方を愛している。本当よ。嘘偽りなく。ただ、オーガスに、オーガスが……」
「お前が悪いってよ、オーガス」
ケドウスは剣を抜き放ち、剣先をさっきまで親友だった男に向ける。オーガスの方は今なお親友だと思っていた。己の裏切りを自覚し、許しを得られないと分かっていてもケドウスほどの理解者はオーガスの人生に一人もいなかったからだ。悪童だった頃の数々の共犯も、若い時分の酒や賭け事での失敗も、これから先の人生の困難を親友と乗り越えていく予兆のように感じていた。
「待って!」クールンが悲鳴をあげる。「駄目! 殺さないで! 貴方の親友でしょ!?」
ケドウスは我慢ならないという風に怒鳴る。「どの口が言ってるんだ! 親友だと!? 裏切り者め!」
クールンは恐怖に震え、涙を溢れさせる。弱く、愚かな女だ。普段は冷淡だが、時に情熱を垣間見せる。夜闇の中で仄かな明かりを見つけたような気分になり、ふらふらと近づくと沼に足を取られるような、そんな女だ。美しいが、特別な美しさではなく、にもかかわらず揺るがない自信家であるが故に、触れてみると容易く割れる。
「お願い。私も悪いの。だから殺さないで」
「庇うのか。そうか。オーガスのことも愛しているってわけだ」
「そうじゃなくて、わたくしは――」
「選べ、クールン。俺かオーガスか。愛している男を、死ぬべき男を」
オーガス抜きで話が進む、この現状こそが三人の関係を端的に表していた。結局のところ、ケドウスはクールンを許すのだ、とオーガスは確信している。そしてクールンは心から詫び、あどけなく反省し、またいずれ同じ罪を繰り返す。
口籠るクールンを見て、ケドウスは目を伏せ、そしてオーガスの脱いだ衣の方に目をやる。そこには剣があった。
「お前が選べないなら。俺たちが決めなくちゃならない。丁度いい。オーガス。剣を取れ。ああ、服も着ていいぞ。昔を思い出すな。確か判事の息子とその取り巻きだった。酔ってたんで何人かが裸同然で、決着がついた時には何人か裸だった。だが今度は喧嘩じゃない。決闘だ。クールン、お前自身が立会人だ」
「やめて! 殺さないでって言ったでしょ!?」
「ならその男の応援をするんだな。俺を殺してお終いだ」
オーガスは黙って寝台を下り、服を纏って剣を握る。黙りこくっていたが冷静ではなかった。親友の恋人に手を付け、それが露見したのだから決闘せねばなるまい。そのように考えていた。後も先も、これまでの友情も、これからの恋情も頭にはなく、戦うべき時が来たのだ、と無責任な兆しが耳元で囁いている。
「まるでこうなると分かっていたかのようだな」とケドウスはオーガスを見て呟く。
剣を構えるケドウスを見つめ、オーガスは答える。「避けられない対立というやつだ。俺の方に身を引く意思がなかった。お前もそういう男じゃないことはよく知っている」
「お願い。やめて。お願いよ……」
クールンの哀願は二人の男の耳に届いていなかった。
ドルムルーの逞しい腕の中でクールンは呟く。「部屋は真っ赤になって、どっちも血塗れだったわ。わたくしは最初、どちらも死んでしまったのだと思って気を失ってしまったの。でも私は揺り起こされた。どれくらい眠っていたのか知らないけれど、部屋は相変わらず真っ赤で……」クールンの瞳は宙を彷徨っている。目覚めているとも眠っているともしれない半覚醒状態で、ゆっくりと瞬きをする。「白状すれば、わたくし、どこかで期待しているのです。あの時のように夫が、命懸けでわたくしを貴方から奪い返してはくれないかって」
「酷いひとだ」ドルムルーは微笑みを湛えたまま呟いた。
「ごめんなさい。でもあの夜のことをこんなに詳しく話すのは初めてだったかしら」
「ええ、ですが私もよく知っています。あの夜の出来事は私のことでもありますから」とドルムルーはクールンの耳元で囁く。
「先生の……? でも、先生はわたくしが結婚してから、わたくしの心の傷を眠りを通じて癒すために、夫に紹介されたのですから……」
「いいえ、違います」とドルムルーは強い声で否定する。「よく思い出して。私はそこにいた。決闘をしたのです。勝者は誰ですか?」
「それは、勝ったのは――」
クールンが言い切る前にドルムルーは問いを繰り返す。「貴方の夫は?」
「わたくしの、夫は――」
「貴方が愛しているのは?」
「わたくしが愛しているのは……、貴方ですわ。先生、ドルムルー先生。わたくしの愛する人」
ドルムルーは満足げな笑みを浮かべて息をつく。「矛盾にも耐えたな。すっかり効いてしまっているようだ」
「先生?」クールンはおずおずとそれでいて愛らしさを忘れずに不安げな表情を作る。
「愛しているよ、クールン」ドルムルーはくすくすと笑い声を漏らす。「君が俺を愛しているように」
その時、叩きつけるような高らかな音が寝室に響いた。
刃がオーガスの肩を掠め、血が噴き出す。しかし怯むことなく返す刃がケドウスの脇腹を捉える。が、浅い。内臓を傷つけるには足りず、しかし血がどくどくと溢れる。
クールンは両手で覆った上に顔を背けていた。二人の男が鋭い気合の声を出すたびに、苦しみの嗚咽を漏らすたびに小さな悲鳴をあげて震え上がっている。
興奮のために心臓が破裂しそうなほどに脈打ち、しかし逃げ場を得た血が流れだすと内から滾るような熱と同時に手足に冷たさを感じる。
ケドウスは血に塗れながら微笑んでいる。オーガスにはとてもそんな余裕はなかった。
「結婚を申し込みに来たんだ」と剣を振り下ろしながらケドウスは叫ぶ。「それがお前に決闘を申し込むことになるとはな。傑作だ!」
ケドウスは狂ったように笑い、剣を振り回す。
「お前が勝てばそうすればいい」
「言われなくともそうするつもりだ!」
剣がまともに克ち合い、火花が散り、二つの刃がどちらも相手を捉えた。二人は共に重い苦痛の声を漏らし、力なくその場に倒れた。
開け放たれた扉にクールンの夫オーガスが立っていた。オーガスは平静な表情で、口元にだけ艶のある笑みを帯び、逢瀬を見下ろす。
「入って来ても大丈夫なのか? 先生」と寝台に横たわるドルムルーが尋ねる。
しかしクールンは蕩けた瞳に映る夫を見ても何も感じなかった。
「ええ、これから最後の仕上げです」とオーガスは余裕のある笑みを浮かべる。「その後、ご夫人はご主人以外を愛した瞬間、ご主人を間男だと思い込むようになります。逆に間男はご主人に」
「催眠術とやらは解けないのか?」
「正式な手順は一つだけ用意しました。ご夫人がご主人だけを愛するようになった時、平たく言えば浮気癖が消えた時ですね」
クールンは夢見るような瞳を彷徨わせて呟く。「先生、先生。何を仰っているの? ドルムルー先生」
クールンは探るように手を伸ばし、床を共にする男の腕に縋り付く。
「クールン。俺の目を見てくれ」と部屋へ入ってきたオーガスが命じるとクールンは言われるままに見つめ返す。「さあ、君は愛する人と手を取り合い、愛していないわけではない人と対面する」オーガスがぱちりと指を鳴らすとクールンはびくりと身を震わせ、鋭敏な眼差しで辺りを見渡す。オーガスが笑みを浮かべ頭を下げる。「ではまた御贔屓に」
クールンの目に映るものは何も変わっていない。愛する人が腕の中にあり、愛する人が咎めるように見下ろしている。ただ、その状況をはっきりと認識した。
クールンは己が裸であることに気づき、身を隠すがオーガスは部屋を出ていくところだった。
「違うの、オーガス!」
ちらりと振り返り、部屋を出て行った愛するひとの瞳は愛する者を映していなかった。