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乱与だよ!
余談だけど、私多分与謝野が男だったら夢女子になってたと思う。
まだ薄暗い寝室に、機械的なアラームの音が響いた。
与謝野晶子は重い瞼を押し上げ、意識を覚醒させる。
同時に、下腹部を掴まれるような特有の鈍痛が、今日という一日の始まりを告げていた。
……やはり来たか。
数日前から感じていた身体の火照りと浮腫、そして昨晩の異様な眠気。
それらすべての伏線が回収されたことを悟り、彼女は小さく溜息をついた。
身体を半ば起こし、シーツを捲る。
案の定、真っ白な布地の上には、夜の間に咲いた小さな紅い花が滲んでいた。
「……ついてないね」
誰に聞かせるでもなく、掠れた声で呟く。
与謝野は医師だ。人体という精緻な器が刻む周期、その生理現象について誰よりも熟知している。
シーツが汚れることも、腹痛に苛まれることも、生物学的な営みに過ぎない。
けれど、一人の人間として、この朝一番の「失敗」は、どうしても気分を沈ませる。
手際よく立ち上がり、汚れたシーツを剥ぎ取る。
下着とパジャマを脱ぎ捨て、バスルームへと向かった。
シャワーの熱い飛沫が肌を叩く。
膣周りに付着した血を洗い流し、清潔なナプキンを充てて新しい下着を身につける。
温まったことで少しだけ腹痛が和らいだ気がしたが、それは一時的な気休めに過ぎないことも知っていた。
脱衣所の洗面台で、剥がしたシーツと下着を広げる。
血液は時間が経つほど落ちにくい。
彼女は慣れた手つきで専用の洗剤を使い、冷たい水でつまみ洗いを始めた。
指先が凍えるような感覚。
けれど、この淡々とした作業が、彼女を「武装探偵社の女医」という公の自分へと引き戻してくれる。
汚れを落とし、洗濯機に放り込み、それから鏡の前に立った。
少しだけ血色の悪い唇に、いつもの紅を引く。
背筋を伸ばし、金色の蝶の髪飾りを留める。
鏡の中にいるのは、どこからどう見ても、隙のない、死をも恐れぬ軍医の末裔。
重い下腹部をベルトで締め上げるようにして、彼女は部屋を出た。
ヨコハマの風は、まだ冬の名残を孕んで冷たい。
与謝野はいつもより一足早く、無人の探偵社に足を踏み入れた。
静まり返ったオフィスは、彼女にとって最高の集中場所だ。
がたがたと音を立てる事務机に座り、未処理のカルテや報告書を並べる。
頭の芯が少しぼんやりとしていて、集中力が散漫になりがちなのを、強いコーヒーの香りで無理やり繋ぎ止めた。
一時間ほどして、国木田や敦、谷崎兄妹たちが次々と出勤してくる。
「おはようございます、与謝野先生。早いですね」
「ああ、少し片付けたい仕事があってね」
努めて快活に、いつもの低めのトーンで応じる。
周囲が騒がしくなり、日常の喧騒が戻ってくる。
その頃になって、ようやく最後の一人がやってきた。
「あ、与謝野さん、おはよー」
扉を開けると同時に、ラムネ菓子を弄びながら江戸川乱歩が入ってくる。
彼はいつも通り、外套を翻して自分の席へと向かった。
与謝野は資料から目を離さず、けれど少しだけ喉を整えてから声を出す。
「……あ、嗚呼。おはよう、乱歩さん」
自分では完璧に、いつもと同じ挨拶を返したつもりだった。
けれど、乱歩は自分の席に座る直前、一瞬だけ足を止めた。
眼鏡をかけていない彼の翠色の瞳が、与謝野の横顔をなぞる。
ほんのコンマ数秒、理学的にも、直感的にも、彼は世界で最も優れた「観察」を行った。
乱歩は何も言わず、ふいっと顔を逸らして席に着く。
「……今日もヨコハマは平和だねぇ。事件の一つもありゃしない」
そんな独り言をこぼしながら、彼は椅子をがたがたと揺らした。
昼前に行われた会議中、与謝野は耐え難い不調に襲われていた。
空調の風が、今日はやけに冷たく感じる。
足先から這い上がってくるような寒気に、思わず膝の上で手を握りしめた。
下腹部では、誰かがナイフで内側を削り取っているような鈍い痛みが断続的に走る。
(……まずい、これは)
視界が少しだけ揺れる。
国木田の読み上げる報告書の内容が、右から左へと抜けていく。
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そんな中、会議室の沈黙を破ったのは乱歩の声だった。
「ねえ、国木田。僕、寒いんだけど。暖房の設定、もっと上げてよ」
国木田が困惑したように顔を上げる。
「乱歩さん、今は適温のはずですが……」
「僕が寒いって言ってるんだから、寒いの! ほら、あと五度くらい上げて。それから、そこの窓の隙間風も気になるから、しっかり閉めて」
乱歩の、子供のような、けれど抗えないわがまま。
国木田はため息をつきながらも、「仕方ありませんね」とリモコンを操作した。
ぐんぐんと部屋の温度が上がっていく。
与謝野は、自分の肌を撫でる温風に救われるような思いを抱きながら、隣の席に座る乱歩を見た。
彼は退屈そうに指で机を叩いているだけで、一度も与謝野と目を合わせようとはしなかった。
午後。
探偵社の面々が外回りや調査に出払い、社内が再び静かになった頃。
与謝野は、誰もいない医務室のデスクに突っ伏していた。
一人の時間は、張り詰めていた糸を緩ませる。
重たい下腹部を押さえ、薄暗い部屋の隅でじっとしていると、世界から取り残されたような心細さが襲ってくる。
薬は飲んだ。けれど、その効果が表れるまではまだ時間がかかる。 その時、医務室の重い扉がゆっくりと開いた。
慌てて姿勢を正し、髪の乱れを整える。
入ってきたのは、やはり乱歩だった。
「……乱歩さん。どうしたんだい、怪我でもしたのかい?」
与謝野は努めて「いつもの与謝野女医」の声を出し、椅子から立ち上がろうとした。 けれど、乱歩はひょいと手を挙げて彼女を制する。
「いや、いいよ。座ってて」
彼は与謝野の制止を無視して、医務室の隅にある流し台の方へと歩いていく。
棚から古い湯たんぽを取り出し、ガサガサと準備を始めた。 与謝野は目を丸くする。
「……乱歩さん、そんなに寒がりだったかい? 暖房も上げさせたっていうのに」
揶揄うように言ってみるが、声に力がこもらない。
乱歩は振り返らずに、ポットでお湯を沸かし始めた。
「僕が寒いんじゃないよ。この医務室が、君のせいで冷え込んでる気がしてね」
「なんだい、それ……」
お湯が沸き、蒸気が上がる。
乱歩はおおらかな手つきで、けれど真剣に、湯たんぽに熱湯を注いでいく。
名探偵が事件の証拠を扱う時のような、あるいは最高級のスイーツを切り分ける時のような、丁寧な手捌き。
カバーをかけた温かい塊を腕に抱え、乱歩はようやく与謝野のそばに歩み寄った。
「はい、どうぞ」
差し出された湯たんぽ。
与謝野が戸惑いながら受け取ると、じんわりとした熱が、強張っていた指先を解かしていった。
「あ……ありがとう、乱歩さん。でも、あたしは別に……」
「『別に』じゃないよ。名探偵を甘く見ないでよね。朝の挨拶の時から、君の顔色は『今日はかまわないでほしい』って書いてあった。……でも、そんなの無視するに決まってるだろ。恋人なんだから」
さらりと言ってのける言葉に、与謝野の心臓が、痛みとは違う理由で跳ねる。
乱歩はさらに、上着のポケットから小さな紙包みを取り出し、彼女のデスクに置いた。
「あと、これ。ココア。自販機のじゃなくて、ちゃんとしたやつ。砂糖もたっぷり入れておいたから。それから、鉄分の入ったウェハース。君、今日はお昼もろくに食べてないでしょ」
デスクの上に並べられた、温かい飲み物と、身体を気遣うための軽食。
乱歩は一度も「生理なんだろう」とは口にしなかった。
けれど、彼がしてくれたことのすべてが、その言葉以上の雄弁さで彼女の苦痛を肯定し、受け止めていた。
「……本当に、敵わないね、あんたには」
与謝野は湯たんぽを抱えたまま、ふっと肩の力を抜いた。
張り巡らせていた緊張が、彼のあまりにも自然な優しさによって、心地よく崩されていく。
乱歩は満足げに鼻を鳴らすと、彼女の頭にぽん、と手を置いた。
「お大事に。……あと一時間もすれば、その顔色も良くなるはずだよ。僕の予想じゃね」
彼はそれだけ言い残すと、ひらひらと手を振って医務室を出て行った。
扉が閉まる音が、静かな部屋に響く。
与謝野は、湯たんぽの重みと熱を抱きしめ、温かいココアの湯気を吸い込んだ。 腹部の痛みはまだ消えていない。
けれど、朝、暗い寝室で感じたあの底冷えするような孤独感は、もうどこにもなかった。
(……いつの間に、気づかれてたんだろうね。本当に……)
ココアを一口啜る。
甘さが、身体の隅々にまで染み渡っていく。
医師として、一人の女性として、誰にも見せたくない弱さを抱えていたはずなのに。
それを暴かれることが、これほどまでに救いになるとは思わなかった。
外では、ヨコハマの街が今日も騒がしく動いている。
けれど、この小さな医務室の中だけには、乱歩が残していった、湯たんぽと同じくらいの温度の「純愛」が、いつまでも温かく満ちていた。
与謝野は目を閉じ、名探偵が保証してくれた「一時間後」の回復を信じて、少しだけ深い眠りに就くことにした。
次に目を開けるときには、きっと、いつもの不敵な笑みで「お返し」ができるようになっているはずだと、確信しながら。