テラーノベル
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「……ごちそうさま」
誰の目も見ないまま、
翠はそう言って立ち上がった。
返事は、なかった。
椅子を引く音だけが、
やけに大きく響いて、
そのまま背中を向ける。
廊下に出た瞬間、
胸の奥に溜めてた息が一気に漏れた。
——あ、だめだ。
足早に階段を上る。
二段飛ばしなんてできない。
今は、ちゃんと一段ずつ。
部屋のドアを閉めた瞬間、
鍵はかけなかった。
かけたら、
本当に“拒絶”になる気がして。
ベッドに腰を下ろした途端、
力が抜けて、そのまま前に倒れる。
シーツに顔を押し付けても、
涙は出なかった。
代わりに、
耳の奥で、さっきの声が再生される。
「今は赫が優先」
「翠は、後な」
……後って、いつなんだろう
考えようとして、
頭がぼんやりする。
制服の袖が、
じわっと湿ってる感覚がして、
遅れて痛みがやってくる。
ああ、
今日も、ちゃんと殴られてたんだっけ。
記憶が、
ところどころ欠けている。
スマホを取り出す。
ロックを解除して、
動画フォルダを開いた瞬間、
指が止まる。
——これ、いつのだっけ。
日付を見ても、
ピンとこない。
再生すると、
画面の中で、誰かが蹴られている。
壁。
影。
荒い息。
……俺?
そう思うまでに、
数秒かかった。
「……あれ」
声が、震える。
音声を止める。
でも、
耳の奥ではまだ続いてる。
殴られる音。
笑い声。
自分の、声。
スマホを伏せて、
両手で頭を押さえる。
「……だめだ」
ちゃんと、覚えてなきゃ。
ちゃんと、管理しなきゃ。
じゃないと、
赫ちゃんが守られない。
なのに、
何をどれだけ撮ったのか、
もう、曖昧だ。
ベッドの上で、
膝を抱える。
呼吸が浅くなる。
———いいな。
また、
あの言葉が浮かぶ。
羨ましかっただけなのに。
守られてるのが、
ちょっとだけ、欲しかっただけなのに。
「……俺、邪魔だな」
ぽつりと落ちた言葉は、
誰にも届かない。
廊下の向こうから、
赫の笑い声が微かに聞こえた。
それだけで、
胸が、少しだけ楽になってしまう自分がいて。
そのことが、
いちばん、嫌だった。
コメント
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ああああううああうあ 心が痛いっす( ほんとにねうん神だなって、ほんとに空気感が想像出来て心へのダメージが(