テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#恋愛
n217(エヌ・ニイナ)
1,658
92
48
451
第3話:聖域の毒針
雨は、あの日から一度も止むことがなかった。
北陸の港町を包む重たい湿気は、古いアパートの木材に染み込み、外の世界との境界線をより曖昧にさせていく。
蓮の生活リズムは、精密機械のように正確だった。
朝六時に起き、志乃のために胃に優しい粥やスープを作る。昼は二人で、港で買ってきた干物を炙ったり、蓮が全国を巡る中で覚えた「地方の隠れ家的な味」を再現したりして過ごす。そして午後、蓮が「聖域」である仕事部屋に籠る間、志乃はリビングで静かに読書をするか、蓮に頼まれた資料の整理をするのが日課になっていた。
「今日は、ほうじ茶のラテを作ってみたよ。少しだけ黒糖を入れてある」
三時。蓮が仕事部屋から出てきて、志乃の前にマグカップを置く。
温かい湯気と共に、香ばしい香りが部屋に広がる。蓮が添えたのは、近所の和菓子屋で買ってきたという、地元の豆を使った落雁だった。
「美味しい……。蓮くんが淹れてくれる飲み物は、どうしてこんなに落ち着くんだろう」
志乃がカップを両手で包み込み、小さく息を吐く。
ここでの生活は、まるで繭の中に守られているようだった。夫の拓也から浴びせられた「お前は何もできない」「家の中にいるだけの置物だ」という言葉も、親友の莉子から向けられた「志乃ちゃんって本当に無垢だよね。羨ましいくらいに」という嘲笑も、ここには届かない。
「志乃さんの心が、少しずつ解けてる証拠だよ」
蓮は、志乃の隣に座り、彼女の横顔を慈しむように見つめた。その指先が、志乃の髪に触れそうになって、止まる。
「ねえ、志乃さん。昨日の続き、聞かせてもらってもいいかな。莉子さんが、君の誕生日に贈ったという、あの真珠のピアスのこと……」
志乃の身体が、一瞬だけ硬直する。
それは、彼女にとって最も痛ましく、最も忌まわしい記憶の一つだった。
莉子から贈られたピアス。それを着けて拓也とレストランへ行った夜、志乃は拓也のジャケットのポケットから、全く同じデザインの、けれどより高価なピアスの領収書を見つけたのだ。宛名は、莉子の本名だった。
「……莉子は、私が傷つくのを知っていて、わざとお揃いのものを贈ったの。私に『お下がり』を着けさせて、拓也との密会を笑っていたんだわ。……あの子にとって、私は親友なんかじゃなかった。ただの、自分の幸せを確認するための『物差し』だったのよ」
志乃の声が震える。
蓮はその震えを、一滴もこぼさず飲み干すかのように、熱心に耳を傾けていた。その瞳の奥で、冷徹な創作の炎が揺れていることなど、絶望の淵にいる志乃には見えない。
「ひどい話だね。……志乃さんの優しさを踏みにじるなんて、許されることじゃない。……もっと吐き出していいんだよ。君の毒を、僕が全部受け止めるから」
蓮の言葉は、甘い蜜のように志乃の鼓膜を撫でる。
志乃は促されるままに、心の奥底に溜まった泥のような感情を言葉にしていった。拓也への未練が、いつしか激しい憎悪に変わっていく過程。莉子の笑顔を、いかにしてズタズタに引き裂いてやりたいかという暗い欲望。
志乃が語れば語るほど、蓮の淹れた「ほうじ茶ラテ」は甘く、そしてどこか痺れるような感覚を志乃に残していった。
◇
その日の夕方、異変は起きた。
蓮が「少し買い出しに行ってくる」と家を出た直後だ。
いつもは鍵がかかっているはずの、蓮の仕事部屋のドアが、わずかに開いていることに志乃は気づいた。
(……蓮くん、閉め忘れたのかしら)
志乃は、立ち入ってはいけないと分かっていながら、吸い寄せられるようにその扉へ手をかけた。
蓮がここでの生活費を稼ぎ出し、自分を守るための「聖域」。そこには、彼が日本中を旅して描いてきたという、美しくも切ない『ざつ旅』の原稿が並んでいるはずだった。
——ギィ、と乾いた音がして、扉が開く。
部屋の中は、異様な光景だった。
壁一面に、付箋や写真がびっしりと貼られている。
その中心にあるのは、一枚の写真。それは、志乃が結婚記念日に拓也と撮った、はずの、志乃が持っていない角度からの隠し撮り写真だった。
「……えっ?」
志乃の心臓が、早鐘を打つ。
その写真の周りには、赤いペンで無数の文字が書き込まれていた。
『被害者A(志乃):依存度80%。救済のフェーズに移行』
『加害者B(拓也):編集者としての矜持を刺激し、莉子への依存を高める』
『加害者C(莉子):マウントの限界点を設定。近日中に港町へ誘導』
足が震え、志乃は机の上に散らばった原稿に目を落とした。
そこにあったのは、蓮が描いていた『新連載』のネームだった。
タイトルは——『雨降る窓辺の蜘蛛』。
そこに描かれているヒロインの顔は、鏡で見る自分そのものだった。
けれど、漫画の中の志乃は、現実よりもずっと醜く、絶望に歪み、蓮に似た青年の足元で、縋るように涙を流している。
『——おいで、志乃。君の絶望は、僕のペン先で完成するんだ。……あいつらを殺す前に、まず君が、君自身の心で、あいつらをバラバラにするのを見せてよ』
漫画の中の青年の台詞。
それは、先ほど蓮がリビングで志乃に囁いた言葉と、全く同じだった。
「……あ、あ。あぁ……っ」
志乃は、喉の奥から乾いた悲鳴を上げた。
自分を救ってくれた温かいスープも、優しい言葉も、この穏やかな雨音の部屋さえも。
すべては、蓮という名の「蜘蛛」が、最高の漫画を描き上げるために作り上げた、緻密な罠(巣)だったのだ。
志乃が裏切られ、この港町に辿り着いたことさえも、蓮が裏で糸を引いていたのではないか——。
その疑惑が脳裏を掠めた瞬間、背後で、冷たい風が吹いた。
「……見ちゃったんだ、志乃さん」
振り返ると、そこには買い物袋を下げた蓮が立っていた。
逆光で顔は見えない。けれど、そのシルエットからは、リビングで見せていた「ほっこり」とした温かさは微塵も感じられなかった。
蓮は、ゆっくりと部屋に入り、扉を閉めた。
カチャリ、と鍵をかける音が、静かな雨音の中に響く。
「……でも、いいよ。これも『演出』の一つだから」
蓮が志乃に近づく。
志乃は腰が抜け、机に縋り付いたまま動けない。
蓮は志乃の顎を優しく持ち上げ、その絶望に染まった瞳を覗き込んだ。その目は、獲物を見つけた猛獣のそれであり、同時に、最高のアートを前にした狂信者のそれだった。
「志乃さん。今、君の心の中で、何かが壊れた音がしたよね? ……その音、言葉にしてよ。それが僕の連載の、最高の『毒』になるんだ」
蓮の指が、志乃の頬を撫でる。
志乃は、逃げ出すことも、拒むこともできなかった。
外は、いつの間にか激しさを増した雨が、逃げ場のない港町を呑み込もうとしていた。
(第3話・おわり)
コメント
1件
うわあ、第3話、一気に読んじゃいました……。最初のほうじ茶ラテの優しいシーンが、後半で全部違って見えてくる怖さ、すごかったです。あの「聖域」の仕事部屋を覗いた瞬間の志乃さんの絶望、心臓がぎゅっとなりました。ラストの蓮くんの「その音、言葉にしてよ」という台詞がもう……じわじわ来ますね。この裏切りの構造、本当に巧みです。次が気になって仕方ないです!🤍