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菜月は佐々木の運転する車で、静かな街並みを抜けてとある場所へと向かった。
目的地は、白壁にアイビーの蔦が這うこぢんまりとしたヘアーサロン。菜月が1ヶ月に1度、決まって訪れる特別な場所だ。車が停まり、菜月が降りると、柔らかな陽光が蔦の緑を照らし、穏やかな雰囲気を醸し出していた。木製の扉を開けると、ウィンドウチャイムの軽やかな音が店内に響き、懐かしい香水の匂いが鼻をくすぐった。このヘアーサロンは完全予約制で、客は菜月だけでいいという店主のこだわりが息づいていた。
店内は静謐で、鏡台の前に置かれた小さな花瓶に季節の花が活けられている。菜月はいつもの席に腰かけ、鏡越しに自分の姿を見つめた。佐々木は車で待機し、彼女の時間を邪魔しない。湊の事故の報せが頭をよぎったが、菜月はそれを振り払うように軽く首を振った。ここでは、ただ自分と向き合う時間が欲しい。店主が微笑みながらハサミを手に現れると、菜月の心は不思議と落ち着きを取り戻した。チャイムの余韻が、まるで時間を止める魔法のようだった。
「綾野さま、いらっしゃいませ」
「こんにちは」
線が細く上背のある男性ヘアアーティストが、菜月を白い革の椅子へと案内した。「回しますね」ゆっくりと半回転する椅子、鏡の中には厳しい面持ちの菜月の姿があった。
「今回はお早いんですね」
「ちょっと、気分転換がしたくて」
美しいラインの指先が、菜月の髪をひと束摘んだ。天井にはシーリングファンが回り、背の高いオリーブの樹が葉を揺らしていた。心地良い音楽が、静かな空間を創り出している。
ぎしっ
「いつものように毛先だけ揃えますか?」
「いえ」
菜月の髪は、薄茶色で絹糸のように滑らかで美しい。緩やかな巻き毛は肩甲骨を覆うほど長く、光を受けると柔らかな金色の輝きを放った。湊はかつて、その髪を「天使の羽根みたいだね」と恍惚の表情で眺め、指でそっと触れるたびに目を細めていた。
菜月がヘアーサロンの鏡台に座ると、店主がその髪を丁寧に梳き、彼女の美しさを引き立てるようにハサミを動かした。白壁に這うアイビーの蔦が窓から差し込む光に揺れ、菜月の髪と調和するように輝いた。予約制の静かな店内では、ウィンドウチャイムの音が時折響き、穏やかな空気を紡ぐ。菜月は鏡越しに自分の髪を見つめ、湊の言葉を思い出した。あの事故以来、湊の声は聞こえないが、彼の視線が髪に宿っているような気がした。佐々木が車で待つ外の世界では、賢治や如月倫子の思惑が動いているのかもしれない。
「切って下さい」
「切る?」
「はい、切って下さい」
菜月の指は何かを決意したかのように、耳あたりで線を描いた。ヘアーアーティストは目を見開いて驚いた。
「切るんですか?」
「はい」
「こんなに綺麗に伸ばしていらっしゃるのに」
「良いんです。切って下さい」
「切るんですか?」
「お願いします」
髪を濡らすシャンプー台に横たわった菜月は、両手を強く組んだ。それは、これまで伸ばして来た髪を切り落とす決意が揺らいでしまわないようにと、天に祈っているようにも見えた。
「それでは切ります、本当に宜しいんですか?」
「はい、お願いします」
「ツーブロックで間違い無いですか?」
「はい、短く刈り上げて下さい」
鋭く、銀に光るハサミが菜月の絹糸のような髪を断つ。一房、また一房と床に落ちる薄茶色の巻き毛の重みが、菜月の胸を締め付けた。肩まで切り揃えた店主が、穏やかな声で「もう一度、切りますよ?」と確認した。喉の奥が窄まり、後悔の影がちらつく中、菜月は搾り出すような声で「はい」と頷いた。
店主は髪をクリップで丁寧に挟み、数ブロックに分けた。ハサミの冷たい音が響くたび、菜月の心臓が強く脈打った。鏡越しに、切り落とされる髪を見つめる彼女の目は揺れなかった。湊の「天使の羽根」という言葉が脳裏をよぎり、胸に刺さる。
ウィンドウチャイムの軽やかな音が、まるで時間の流れを刻むようだった。賢治の依頼や湊の事故、如月倫子の影が遠く感じられるこの瞬間、菜月は自分自身と向き合っていた。ハサミが動くたび、過去が少しずつ切り離され、新たな自分が鏡に映る。店主の手は確かで、菜月の決意を形にするように、髪を一房ずつ丁寧に整えていった。
シャキン
ハサミが菜月の長い髪を耳のすぐ下で切り落とした。その瞬間、菜月はぎゅっと目を瞑った。耳元で鋭い刃先が音を立て、恐る恐る瞼を開くと思わず目尻に涙が滲んだ。然し乍ら、その決意を表すように、唇はきつく結ばれていた。
シャキン
(これは綾野の家を侮辱した怒り)
シャキン
(これは多摩さんを馬鹿にした怒り)
シャキン
(これは私を辱めた怒り)
シャキン
(これは湊を傷つけた怒り)
シェーバーの音が襟足を撫で、耳先で柔らかな髪が揺れた。菜月は絹糸のような長い巻き毛を切り落とした。
「これで宜しかったでしょうか」
「ありがとうございます」
「お綺麗ですよ」
「ありがとう」
最後に確認した鏡の中には、男性のように短く刈り上げた菜月の背中が映った。薄茶色の巻き毛、湊業の「天使の羽根”は、菜月が自らの手でもぎ取った。床に散らばる髪は、過去の自分を切り捨てた証だった。これまで湊に助けられるのが当たり前だと思っていた菜月は、初めて自分の意志で大きな変革を選んだ。
(私が、私も動かなきゃ!湊に頼ってばかりじゃ駄目!)
賢治と如月倫子の不倫関係に対する報復は、自身が行うべきだと菜月は奮い立った。いつまでも、あのハンギングチェアで微睡んでなど居られない。この断髪はその決意の表れでもあった。
「佐々木さん、お待たせ」
「いえ、大丈夫です」
文庫本に栞を挟み、後部座席を振り返った佐々木はその姿に仰天した。
「な、菜月さん。その髪はどうなさったんですか」
「どうって、切ったの」
「切ったのって、そんな」
それは、綾野の家でも同じだった。少年のように襟足を刈り上げた菜月の姿に、多摩さんと ゆき は腰を抜かし、郷士は言葉を失った。
「な、菜月さん、あなた、髪はどうしたの!」
「切ったの」
「それは分かります!分かりますけど!」
翌日、精密検査を終えた湊は、右腕の骨折以外は異常なしとの診断を受けた。菜月の事が心配な湊は、もう2、3日入院したらという周囲の言葉を振り切り早々に退院した。帰途の車内で、ハンドルを握る佐々木が言葉を濁した。
「湊さん、菜月さんなんですが」
「菜月がどうかしたの!」
「いえ、髪を切られて」
「なんだ、そんな事」
「………!」
湊は、ほんの10センチ切ったのだろうと高を括っていた。玄関の引き戸を開けた瞬間、目の前の少年が本当に菜月なのか、信じられないといった表情となった。
「菜月!なんで!あの髪はどうしたの!」
「切ったのよ」
「切ったって!そんな!」
「イメージチェンジしたかったの」
「そんな!嘘でしょう!」
湊は、そんな菜月の決意に気付かなかった。