兄である想がいそいそと出掛けていくのを見送って、芹は目の前に真剣な顔をして座る結葉を見て小さく生唾を飲み込んだ。
芹だって馬鹿じゃない。
結葉が、ちょっと遊びに来たという体で兄のアパートを訪れていないことは、ここに来て割とすぐ、部屋の中を見回した時に何となく察しが付いていた。
部屋の片隅――。
片付けられずに置かれたままの、買ってきたばかりと思しき袋の山。
その中に、レディースアパレルショップのロゴが入った袋を数個見つけて、プレゼントにしては多すぎだよね?と思った芹だ。
まるで服を一新する勢いで買い揃えたとしか思えない、そのブランドの袋の山は、プチプラだけど可愛いデザインのものが沢山あるから、芹自身もよく利用するお店のものだった。
そのお店では下着を買った時だけ黒い袋に入れてくれるのだけれど、それもちらりと袋から覗いているところが如何にもという感じがして。
(結葉ちゃん、ひょっとして着の身着のままで家出でもしてきた?)
そう思ってみれば、結葉の両足首に巻かれた包帯も何かを暗示しているようで何だか気になるし、何より幼なじみの彼女が物凄く痩せていることも気になった芹だ。
極め付けは、ハムスターの雪日の存在。
雪日が入っているケージは、回し車の取り付け方や給水ボトルの設置法、果てはフタ部分の金網のはめ方に至るまで、兄の想が手作りしたものであることは明白で。
(うちにあるのと一緒だもん)
想が、芹の飼っている五匹のハムスターたちのために作ってくれたケージとほぼほぼ造りが一緒。
見間違えるはずがない。
それを、想が結葉のハムスターのために手作りしたということは、雪日はきっと、今まで住んでいたケージには住めなくなってしまったということだ。
ちょっとの間だけならあんなに本格的にケージを作る必要はないはずだから。
そう思って、結葉とふたりで雪日を愛でていた際に注意深く視線を彷徨わせたら、結葉が雪日を連れてくる時に使ったと思しきキャリーが入ったトートバッグが置かれているのも目についた。
今日ちょっと遊びにきただけ、とかならそのキャリーに入れたままでも何とかなったはずだ。
いや、そもそも芹ならつい遊びに行くのにハムスターを連れて出ること自体しない。
床材や餌も未開封のものがケージのそばに置いてあった。
まるで雪日は兄の家で飼われるみたいだ、と思って。
(結葉ちゃん、ひょっとして家に帰れない事情が……あるの?)
兄が、買い物に出るためだけに自分を呼んだような気もしてきてしまった芹だ。
自分を呼びつけたくせに出かけると言い出した兄を責めたら、何故か結葉が申し訳なさそうに謝ってきたのにも引っかかりを覚えた。
事情はよく分からないけれど、自分がアパートに入ってすぐの時の結葉の様子もおかしかったな……と芹は思い出す。
(結葉ちゃん、あたしだって分かって出てきてくれたけど、何だか物陰に隠れてるみたいに見えた……よ?)
(結葉ちゃんは……何かに怯えてる)
そう確信した芹だった。
***
「芹ちゃん……。実はね……私、夫から逃げて来たの」
何も言わずにじっと結葉が話し出すのを待っていてくれる芹に、結葉はマグカップをギュッと握りしめて。
そうしてグッとお腹に力を込めると、第一声からズバッと本題に切り込んだ。
「……え?」
だけどさすがに言われた方の芹は驚いたみたいで。
彼女にしては珍しく瞳を見開いて理解が追いつかないと言う顔をした。
「想ちゃんにも話したんだけどね、私――」
そこで正座を崩すと、結葉はその場で立ち上がって包帯の巻かれた足首を芹に見えるようほんの少しだけ斜め前方に差し出して見せる。
「怪我……?」
(両足とも?)
言葉にこそしなかったけれど、芹の視線が差し出していない方の足にも注がれたのを感じた結葉だ。
コクッと小さく頷くと、結葉はもう一度芹の前に座り直した。
「私の夫は……私のことをとても愛してくれていて……。それが深すぎて私を自由にさせておくことに不安を覚えてしまったみたいなの――」
足枷を付けられて部屋に繋がれ、いわゆる監禁生活を強いられてしまったことをポツリポツリと語ったら、芹が突然ガタッと立ち上がって結葉のそばに来て膝を折った。
予期せぬ芹の行動に結葉が胡乱気な視線を向けたら、そのままギュッと抱きしめられて。
芹は何も言わずに結葉を腕に閉じ込めたまま、小さく嗚咽の声を漏らした。
結葉は芹が自分を抱きしめたまま泣いているんだと気がついて、心底驚かされてしまう。
「芹、ちゃ……?」
恐る恐る芹の髪に触れたら、抱きしめる腕に更に力を込められた。
「……付かなくて、……めんねっ」
(気付かなくて、ごめんね)
ややして途切れ途切れ。
芹が結葉にそう語りかけてきて。
結葉は、芹が結葉の現状に気付けなかったことを悔やんで謝ってくれているんだと悟った。
「せ、芹ちゃんは……ちっとも悪くなんてないよ? 気付かなくて……当然だもん」
家庭内という密室で起こったことなのだ。
結葉が声を上げない限り、誰にも気付いてもらえるはずなんてなかった。
それは結葉自身が誰よりも分かっていたことで――。
結葉が芹を気遣うように言ったら、「でも……」と絞り出すようにつぶやいた芹が腕を解いて。そのまま結葉の顔をじっと見つめてきた。