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「お前、自分の好きな男のことを知らないのか?」
いきなり悠里は後藤にそんなことを言われた。
「お前の好きな奴だ、しやち」
「いや、誰なんですか、その人。
そもそも私に好きな人なんていません」
と言って、
「……それもどうなんだ」
と言われる。
いや、いいではないですか、別に。
全人類、恋してなければいけないなんてこと、ないと思います、と悠里は思った。
「ところで、誰が私がそのしやちさんを好きだなんて言ったんですか?」
「そもそもは北原さんだったんだが」
「……何故、大家さんが私の好きな人まで管理してるんですか」
大家だからですかと、悠里は言う。
「北原さんは、お前の好きな人の名前は、『ゆう』じゃないかと教えてくれただけだったらしい。
その男からメッセージが入ると、お前はとても嬉しそうな顔をするんだそうだ」
後藤は何故か渋い顔でそう言った。
「『ゆう』さんですか。
知りませんね~。
『ゆうじ』ならうちの弟ですが。
私が実家に置いている大事な漫画にチョコアイス落としたというので、この間、チョップを喰らわしたばかりです」
メッセージが入ってきても、ときめきません、と悠里は言う。
「でも、大家さんがおっしゃるのなら、ほんとうかもしれませんね」
悠里も北原への信頼度は高かった。
私の好きな『ゆう』さんか。
誰なんだろうな。
「そしたら、大林が……
ああ、勝手にしゃべったと知れたら、大林が怒られるか」
「……誰にですか?」
「お前にかな……」
そうですよね。
いや、別に怒りませんけど、と思っていると、後藤が言う。
「『ゆう』さんの名字は『しやち』だと大林が教えてくれたらしいんだ」
「では、大林さんは、私の好きな人をご存知なのですね?」
ちょっと総務に行ってみませんか?
と悠里は後藤を誘ってみた。
「こんにちはー」
と聞き覚えのある声がした。
「あ、悠里。
ちょうどよかった。
海岸沿いにマフィンの店ができかたらさ」
と振り向いた修子は、悠里の背後にいる後藤に身構えた。
ご、後藤さんっ。
私は、社長から後藤さんに心変わりして以来、心は浮気、していませんからねっ。
「あの修子さん」
「なにかしら?
悠里ちゃん」
いい先輩なところを後藤に見せようと精一杯微笑むと、悠里がぞわっと来たような顔をするので、反射で睨む。
一瞬で顔の変わる人形浄瑠璃の清姫のようになってしまい、悠里ごと後藤もビビる。
しまった、とまた表情を繕おうとしたとき、悠里が訊いてきた。
「私の好きな『しやち』さんって誰なんですか?」
「……知らないわよ。
なんで私が知ってると思うのよ。
社長に、あんたが親しくしている『ゆう』って人を知ってるかって訊かれたから。
そういえば、スマホの連絡先に『しやち ゆう』さんって人がいたって教えただけよ」
修子はきちんと区切って言った。
『しやち ゆう』と。
「『しやち』……どんな字なんですかね?」
三人とも、それぞれのスマホで『しやち』という名字を調べはじめる。
「ないじゃない、『しやち』なんて」
「『しゃち』なら、いくつか、ありますね」
「あんた、打ち間違えたんじゃないの? 『しゃち』と」
「『しゃち』さんなんですかね?」
小首をかしげる悠里に言う。
「そもそも、なんであんたが知らないのよ。
しょっちゅう、あんたにメッセージ入れてくる、ストーカーみたいな奴じゃない」
「ええ~?
『しゃち』さんなんて人、知りませんよ」
と言いながら、悠里はスマホの履歴を見る。
「ほら、電話もいっぱいかかってるっ」
と修子は履歴を指差した。
『しやちゆう』
なんだ、これですか、と悠里は笑う。
「これは社長ですよ~。
小文字にするのがめんどくさくて」
「いや、『しやちよう』ですら、ないわよっ」
「無礼がすぎるだろ、お前っ」
同時に後藤も叫んだので、修子は、
なんだか私たち息が合ってるっ、と喜んだ。
私が社長を好きとかどういうことなんでしょうね、と思いながら、悠里は仕事で社長室に向かう。
入り口の立派なプレートには、ちゃんと、『社長室』と書いてあった。
『しやちゆうしつ』って書いててくれれば、ピンと来たのに、とそのプレートを見ながら思ってしまう。
「いや、『しやちようしつ』だろ。
ピンと来ないだろ」
と後藤には言われそうだったが。
「失礼します」
と入り、仕事を済ませたあとで、なにかこちらを妙に気にしている風な七海に悠里は言った。
「あ、そうだ。
誰だかわかりましたよ、しやちさん」
いや、なんでお前が誰だかわからなかった?
っていうか、なんで、俺がそいつを探していたことを知っている?
という顔をされる。
「あれ、社長のことでしたよ」
えっ、と七海は固まった。
「いや~、すみませんっ。
ご無礼なことするつもりはなかったんですが。
最初に登録するとき、打ち間違っちゃって」
と悠里はスマホの画面を見せた。
『しやち ゆう』からたくさん着信している履歴を見て、ゾッとしたように七海が言う。
「……誰なんだ、このストーカーは」
「だから社長ですよ」
そのとき、失礼します、と後藤がノックしてきた。
七海は、反射でか、顔も上げずに、入れと言う。
「……待て。
じゃあ、お前が好きなのは俺なのか?」
「いや、そこは大家さんの勘違いですよ」
と笑うと、
「そうかもな……」
と七海は浮かない顔で言う。
「打ち間違って、そのままにしとくくらいだから、愛はないな……。
ないよな。
ただの友にしても、どうかと思う」
そうだ、打ち直せっ、と突然、七海は叫んだ。
「そして、カテゴリー分けのところに、ハートマークもつけておけっ」
俺もつけるっ、と叫びながら、七海はスマホを開けた。
発信履歴のところには、ずらりと同じ文字。
『派遣秘書2』
「社長……」
「……愛がないですね」
と後藤が悠里の心を代弁してくれた。
「俺は打ち間違ってはないぞっ」
「あの~、どっちみち、愛はなさそうなんですけど」
と騒ぐ二人を見ながら、後藤は思っていた。
なんだか、この二人の間には割り込めそうな気がする……と。
いや、割り込みたいわけではないんだが、と思いながら、後藤は、すっとおのれのスマホを取り出す。
発信履歴をスクロールさせる。
下の方に『ユウユウ』の文字。
……割り込みたいわけではないが。
おそらく――
俺の方が愛がある。