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そんなことを考えていた時だった。
突如、馬車が大きく揺れ、身体が宙に浮くような衝撃とともに、けたたましい馬の嘶きが車内に響き渡った。
「フレイア、大丈夫か」
「へ、平気……」
勢いよく壁へ頭をぶつけた私は、乱れた髪を押さえながら身を起こす。
ズキズキと鈍く痛む額を撫でていると、馬車の外から慌てた声が飛び込んできた。
「ご無事ですか! 公爵様、公爵夫人!」
ルシアンは御者に返事をするより先に、私の頭のてっぺんから足先まで視線を走らせた。
私の体のどこにも怪我がないことを確かめると、ようやく低い声で返事をした。
「何事だ」
「申し訳ございません、公爵様。どうやら馬が足を負傷したようです」
馬が怪我を?
御者が扉を開けると、ルシアンはすぐさま馬車を降りていく。
気になった私は窓際へ身を寄せ、外を覗き込んだ。
視界に飛び込んできたのは、焦茶色の大きな馬だった。
前脚を庇うように地面へ横たわり、苦しげに荒い息を吐いている。
苦痛に耐えるように耳を伏せ、威嚇するような低い唸り声を漏らしていた。
「どうやら、鉄片を踏んでしまったようです」
年老いた御者が地面に落ちていた金属片を拾い上げる。
それには、馬のものであろう赤い血が付着していた。
「残りの馬だけでは公爵邸まで辿り着くのは難しいかと思われます。こいつが転けた拍子に車輪が歪んだようなので、その確認も行わなくてはなりませんので……」
「しっかりするんだ!」
二人の会話へ耳を傾けていると、切羽詰まった叫び声が響いた。
「マクシー! おい、しっかりしろ!」
声のする方へ視線を向けると、そこには必死に馬の首を撫でる若い御者の姿があった。
マクシーと呼ばれた馬は”ブルルン”と苦しそうに鼻を鳴らすばかりで、立ち上がる気配はない。
青年は今にも泣き出しそうな表情で馬を見つめていたが、不意に何かを思いついたように顔を上げると、勢いよくこちらへ駆け寄ってきた。
「公爵夫人……いえ、聖女様!」
縋るような眼差しが、真っ直ぐ私へ向けられる。
「聖女様は光魔法で傷を癒やせるのですよね? どうか、マクシーを助けてください。この子は幼い頃から一緒に育った大切な家族なのです!」
今にも泣きそうな顔で縋るように言われ、私は眉をひそめた。
私に聖女の力を使えと言ってくる者は少なくない。光魔法はそれだけの価値があった。
#ざまぁ
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私は、自分に聖女の勤めを果たせと言ってくるものを誰であろうと容赦してこなかった。
たとえ血の繋がった父であろうと、この国の皇太子であろうとも。
「……嫌よ」
「どうしてですか! 聖女様にとって、光魔法を扱うことなど容易いことだと聞きます! 聖女様が公爵邸に無事帰るためにも、この馬を治す必要が……」
「私が嫌だと言ったら嫌なの。理由なんて必要ないわ」
冷たく言い放った私に、青年の表情が悔しさに歪むと、怒りを滲ませた瞳が私を射抜いた。
そんな目で、私を見ないで。
不愉快なものが胸の奥から込み上げてきて、思わず下唇を噛み締めた時だった。
「何をやっている!」
ルシアンと話をしていたもう一人の御者がこちらに向かって慌てた様子で駆け寄ってきた。彼は迷わずその手を振り上げ、青年の頬を殴りつけた。
「馬鹿者! 誰に向かって口を聞いておるのだ!」
「父さん、だけどマクシーが……!」
「黙って謝らんか、この馬鹿息子が!」
二発目の拳を顔に受け、ようやく青年は口を閉ざした。
「くそっ……。もう一人の聖女様なら、レティシア様だったら、きっと……」
父から殴られたことなど些細なことのように、切れた口の端についた血を乱暴に拭いながら悔しそうに馬を見つめる青年に対して怒りなど微塵も湧いてこなかった。
「お前は本当に……。公爵夫人、申し訳ございません。息子がとんだ無礼を。心から謝罪いたします」
「どうでもいいわ。もう話しかけてこないで」
淡白にそう言うと、御者は私に向かって深く頭を下げ、また馬車の先頭へと駆けていく。
御者にとって馬は子のように大切な存在だという。
若い御者が幼さ故に感情を爆発させただけで、この男もまた、私に怒鳴りたい気持ちを押し殺しているのだ。
全知全能の癒しの力。
神に愛され、選ばれた者のみが扱うことのできる聖女の力。それが光魔法だ。
私は自分の手のひらを見つめると、心の奥底から湧き上がる不安を抑え込むように握りしめた。
その時、どこからか馬が土を蹴る音が聞こえてきて顔を上げる。
その音はだんだんと近づいてきて、次の瞬間には「止まれ!」という若い青年の声が響いた。
聞き慣れたその声に、私は馬車の窓から顔をだす。
そこには明るい茶髪を持つ男が、丸い目を大きく見開いて私を見つめていた。
「こんなところで何をやっているのですか? フレイア様!」
「アルセイン」
私が名を呼ぶや否や、アルセインは慌てて馬から飛び降りた。
砂埃が立つのも気にせず駆け寄ってくると、私の両手を包み込むように握り締めた。
「あんまりです、僕を置いて行ってしまわれるなんて! 僕がどれだけあなた様を心配したことか……!」
「別に、置いていったつもりはないわ。ただ、あなたの存在を忘れていただけよ」
「……いいんです、僕はいいんです。もう慣れています」
乾いた笑みを浮かべるアルセインの肩が落ちる。
何やら恨み言をぶつぶつと呟いているが、聞こえなかったことにして私は顔を背けた。
すると、御者との話を終えたルシアンがこちらへ歩み寄ってくる。
「卿も王宮に行っていたのか」
「ルシアン様! もちろんですとも」
アルセインは胸を張り、得意げに答えた。
「僕は王室と神殿から直々に、何があろうとフレイア様の傍を離れるなと命じられておりますので!」
彼はルベイン侯爵家の次男であり、私が聖女として認められた日から護衛騎士を務めている男だった。
ロズレイン公爵家でも、アルスハイン公爵家でもなく、忠誠を誓う相手はこの私だけ。
自分だけの護衛ができると聞いた時は少し嬉しかったような気がする。
まあ、まさかこんな子犬みたいな男が来るなんて夢にも思わなかったけど。
「その優秀な護衛騎士殿は、今度はどんな理由で置いていかれたんだ?」
ルシアンが呆れ半分に問いかけると、アルセインは身を乗り出して意気揚々と答える。
「実は、王宮の庭園にある薔薇の棘を一本一本取り除いて百本の花束を作れと命じられたのです。しかし、ようやく完成した時にはすでにフレイア様は出発されたあとで……! ルシアン様、僕がどれだけ慌てたことかあなたになら分かっていただけるでしょう!」
そういえば、そんなことを言ったような。
完全に忘れていた私は、誤魔化すように小さく咳払いをして問いかける。
「それで? その花束はどこなのよ」
「あっ、それがですね。実は全部ジョセフィーヌに食べられてしまって」
「……ジョセフィーヌ?」
「僕の愛馬、美しきジョセフィーヌです」
アルセインは顔を輝かせると、後ろにいる栗毛の馬を指差した。
ジョセフィーヌと紹介された雌馬は私に向かって得意げに鼻を鳴らす。
ギョロリと動く黒色の瞳が、何とも気味悪い。
「……あなたたち、とってもお似合いね」
「フレイア様が僕を褒めてくださるなんて……ジョセフィーヌ、聞いたかい? 僕は感激のあまり涙が出そうだよ!」
嬉しそうに馬へ語りかける姿に、思わず深いため息が漏れる。
そんな私たちの様子を窺いながら、馬と馬車を慌ただしく行き来していた年配の御者が、おずおずと口を開いた。
「公爵様、申し訳ありません。馬車の修理には、もう少々時間がかかりそうです。それまでお休みいただける場所があればよろしいのですが……」
「それでしたら、この近くにあるアルベド子爵家の屋敷で休ませていただくのはいかがでしょう」
ルシアンが返事をするより早くアルセインが勢いよく口を挟んだ。
「公爵夫妻がお見えになれば、きっと喜んでお迎えくださるでしょう。それに、代わりの馬車をお借りできるかもしれません」
「あなたにしてはいい提案だわ。そうしましょう、早く屋敷に帰りたいわ」
「最も早い帰宅方法は馬での移動ですが、それは難しいですしね。フレイア様はとっても乗馬がお下手……」
勢いよく馬車の扉を押し開くと、木製の扉が見事にアルセインの顔面へ直撃する。
「いっ……!」
痛みに鼻を押さえつけるアルセインの足をわざと踏んで馬車から降りた私は、先ほどから愉快そうにこちらを見つめていたルシアンの元へ歩み寄った。
「私、そろそろアルスハイン家の公爵夫人として、アルスハイン騎士団員を従者にした方がいいみたい」
「彼以上にあなたに合う者は見つからないと思いますが、そこまで仰るのなら探してみましょう」
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