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あや
「えっ? じゃないわよ。そのままじゃ風邪ひいちゃうでしょう?」
ナオミは、先ほどまでの熱っぽさが嘘のような、呆れたような微笑を浮かべて顎から手を離した。
けれど、その指先は離れ際に穂乃果の耳朶を、まるで羽毛で撫でるように悪戯っぽく掠めていった。
「アンタがそんなに赤くなって突っ立ってるから、つい揶揄いたくなっちゃったじゃない。……ほら、シャワー浴びてきなさい。アタシはフロント しておいてあげるから」
ナオミは鼻歌まじりに、手際よくバスルームの扉を開けて照明を灯す。そこから溢れ出す清潔なシトラスの香りと、温かな湯気の気配。
「……あ、あの、でも……」
「どうしたの? もしかして、本当にシたかった?」
「ち、ちが……っ」
否定しようとした言葉が、あまりの恥ずかしさに喉の奥でつっかえる。
ナオミは、今度こそ楽しそうに肩を揺らして笑った。その屈託のない笑い声が、かえって穂乃果の心臓を痛いくらいに刺激する。
「ふふ、冗談よ。そんなに顔を真っ赤にして。初心ねぇ……。そんな態度取られたらアタシのほうがソノ気になっちゃいそう」
「そ、ソノ気って……っ!」
思わず裏返った声で叫び、穂乃果は両手で自分の顔を覆った。指先から伝わる頬の熱さは、もはや火傷しそうなほどだ。
ナオミはそんな穂乃果の反応を心底楽しむように見つめると、いたずらが成功した子供のような顔で、バスルームの入り口に用意されていたふかふかのバスタオルを手に取った。
「嘘よ、ウソ。……でも、そんなに無防備な顔、他の誰にも見せちゃダメよ? 悪い男に付け込まれでもしたら大変」
そう言って、ナオミは穂乃果の頭にふわりとバスタオルを被せた。
視界が真っ白なタオルで遮られ、代わりにナオミの残り香と、タオルの清潔な匂いが鼻腔をくすぐる。タオルの上から、ナオミの両手が穂乃果の頭をわしゃわしゃと優しく、けれど力強く包み込んだ。
「ゆっくり浸かって来なさい」
タオルの上から伝わるナオミの手のひらは、驚くほど温かかった。大きな子供をあやすようなその手つきに、穂乃果の強張っていた肩の力がふっと抜けていく。
「……はい」
タオルの下で、小さく返事をする。
ナオミが手を離すと、視界を覆っていた白が滑り落ち、再び琥珀色の瞳と視線がぶつかった。ナオミは満足そうに口角を上げると、バスルームの扉を軽く開いて見せる。
「……あ、そうそう。アメニティにローズのバスソルトがあったわ。穂乃果、アンタにはそういう華やかな香りが似合うと思うの。……ね? 誰にも邪魔されないんだから、存分にリラックスしてきなさいな」
ナオミのその言葉は、直樹に植え付けられた「香るものへの罪悪感」を、鮮やかな魔法のように上書きしていった。
「……ありがとうございます、ナオミさん」
穂乃果は、もう一度だけナオミの顔を見てから、湯気の立ち込めるバスルームへと足を踏み入れた。
パタン、と背後で扉が閉まる。
そこは、先ほどまでの雨の冷たさが嘘のような、柔らかくて温かい世界だった。
一人になった空間で、穂乃果は抱きしめたタオルの柔らかさに顔を埋め、深く、深く息を吐き出す。鏡に映った自分の顔は、のぼせたように真っ赤で、でもどこか憑き物が落ちたような、そんな表情をしていた。
(似合う……って、言ってくれた)
直樹は、香水や化粧品の匂いを男に媚びている。と嫌っていた。けれど、ナオミはそれが自分に似合う。と言ってくれた。
穂乃果は震える指先で、雨に濡れて重たくなったブラウスのボタンに手をかけた。一つ外すごとに、肌に張り付いていた冷たい不快感と一緒に、古い自分を一枚ずつ脱ぎ捨てていくような、不思議な高揚感が胸を満たしていく。
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